焦っているとき

 自分がどうしたいかわからなくなっていて、人のためにやっているのにというような気持ちになったり、まわりがわかってくれない、ついてこない、というような苛立ちを感じるようなとき、ただ単に、自分にとって必要なことや、本当にやりたいことに目をつぶっているようなときに、焦りを感じたりしてきたような気がする。

 今は焦りを感じているようで、少し自由な気持ちにもなっているような気がする。家族について、罪悪感を抱くことが、少なくなったかもしれない。単に少し図々しく、鈍感になっただけかもしれない。でも、少しだけ晴れた気持ちになっているから、別の鈍感さは少し減ったかもしれない。

 周りの人の話を聞いたり、様子を見たりしているうちに、最近、自分は、人に構う、構われる、ということに対する感性がかなり薄いというようなことを思うようになった。特にそう思ったのは、僕と同い年の、僕と似たような環境で育った人の話を聞いていて、この人は構われないのが当たり前だという感覚にならないと生きにくかったんだろう、と思ったからだった。実際は、構われずに育ったわけでは全然ないんだろうけれど、記憶に残っていないところで、そういうのは幾分か形成されてしまうような気もする。

 といっても、それに気づいたら、幾らでも方法はある。大分遅くなってしまったけど、少しずつでも、多少不自然でも構うこと、構われることを大事にしたいと思う。でも無理をして、罪悪感を上塗りするようなことはしないで、苦手なことはそこそこ避けていきたい。

町読者の明るい見解

 学生時代は、どんなふうに本を読んだ感想を言ったんだろう。本に限らず、何かに対して感想を言うことも、興味を持って時間をかけて、よく確かめて、言葉にしていた。

 興味を失わないためには、ある程度の誇りも必要なのかもしれない。誰かと比べてでもなくて、誰かに見てほしいわけでもない誇りだったら、それはただ単に満足感ということなのかもしれない。

 丁寧にやっているとき、虚しくなるのだったら、何かしら誇りが足りなくなる要因があるのかもしれない。

 本を読んでいるとき、本の内容について考える。また、今の自分の生活について考えたり、思いを馳せたりしている。忘れていた思いも、思い出したりしている。以前は思いやイメージの先に、何かがある気がしていた。今もある気がしているのかもしれない。ただ、無理してその先に辿り着きたい、その先のイメージ、理解を掴みたいとは思っていない気がする。それでも、諦めているわけでもない。でも、今の理解から少し溢れているイメージの手を、肩の上に上げて伸びをするみたいにして、気のせいかもしれないぐらいほんの少しだけ遠くにやってもいいのかもしれない。

 そんなふうにしているときは、人に対して明るい見解を示している気がする。仮に、お金がない、とか、ずるい気持ちを抱いている、というような意味のことを言ったとしても、明るい見解は失われないのかもしれない。

好事魔多し

 どうしてかはわからないけれど、そのとおりだというような気がする。自分の問題だったり、タイミングが悪かったり、それは本当はやりたくないとか、そういうようなこともあるけれど、やっぱりそのとおりだというような気もする。

 最近、文章を書くことか、人に熱心に話すことのどちらかは、一日の終わりに、きょうはやったと思う、と思いたいと思うようになった。

 人に伝えることが面倒だと思う気持ちと、部屋を片付けることが面倒だと思う気持ちは、どこか似ているような気がする。どちらも、何かに焦っているような気がするし、子供っぽい気がするし、わがままな気がする。

 映画を見たり、ゲームをしたり、運動をしてみたり、音楽を聞いてみたりするだけでは、頭の中にも心の中にもすっきりしない領域が残ってしまう。それはただ単に自分でつくってしまっただけなのかもしれないけれど、そんな領域がないと思っていた子供のころも、本当はその領域はあって、やたらわがままを言うとか、別の形であらわれていたのかもしれないから、そんな領域をつくってしまったことは、悪いとは言えない。そういう意味でも、たばこに似ている、と思ってしまう。

 たばこを吸う前から、もう少しわかりにくい形で、きっと問題はあったけど、それがニコチン中毒的なわかりやすい形になっただけなのかもしれない、と思う。ほとんどたばこは吸ったことないし、今は全く吸いたいとは思わないけど、そういうものである気がする。

 それは、どうしてかはわからないけれど、僕の場合は書いたり読んだりすることになっている。別にそれがすごいできるとか、できないとかは関係ない。ただ、身体的にすっきりするかしないかで、そうなんだというのは間違いないだけで、ほかのものに変えたい、と思ったことや、離れたいというように思うことはあったけれど、頭で考えてどうこうすることじゃないと、観念してしまったような感じになってしまった。

 仕事中、辞書を見ることがあって、時々気になる言葉、知らない言葉が目に入ります。納得してるかはともかく、最近気になったのは、「好事魔多し」の次は、「習うより慣れろ」、「巧遅は拙速に如かず」です。

 

快適さ

 なかなか、快適さ、ということを優先することができない。ついつい何か達成するためにやることはないか、と思ってしまう。そんなふうにずっとやってきて、結局はそれで自分が満足できることは、ほとんど全くなかったような気がする。満足できたとしても一瞬で、すぐに消えてしまうものでしかなかったような気がする。その後、周りを見てみたら何も残っていない、というようなことが多かったような気がする。

 今、できるだけ穏やかでいられることを意識して、優先できるようになりたい、という気がする。ずっと緊張しないで、ぼんやりとしていられることはないだろうけど、すぐに自分の快適さを何のためらいもなく安売りして削って、何かを強引に進めようとするようなことは避けたい。結局、それはずっと続けることはできないから、その場しのぎになってしまって、どれぐらいしのげるかの長さはそのときの状況によって違うとしても、結局はぼろがでてしまって破綻する、ということは何回もしてしまっている気がする。

 快適さ、ということでとりあえず、書き物に関係することにしか使わない机を用意したいと思った。そのためには部屋にある物をもっと減らして、そのための場所を空けないといけない。なかなかモチベーションが上がらないけれど、その机の前に座って、静かな気持ちになっている心地よさをできるだけ明確にイメージして、何とかやってみたい。たったこれだけのことが、すごく苦手だが、ほんの少しずつでも毎日進めたい。

村一番の力持ち

 紙に書くほうの日記は、時々は書いていたけれど、文量はそれほどいっぱい書くのは難しかった。5年前ほどに転職した直後は、全くと言っていいほど文章を書くことはできなくて、読むこともほとんどできなかった。

 新しい環境になって時間がなかったということではなくて、頭の機能的にその部分が壊れていたというような感じがする。今でも100%治ったというふうには感じないけれど、それは年齢の問題とかも少しあるような気もするし、文章に触れる機会も、文章に触れている時間が長い人と触れる機会も随分減ってしまったことも、大きな原因である気がする。

 それでも、長い時間、文章を書くこと、読むことをやってきたせいか、人の話を理解する力はそれなりにあるんじゃないかと感じられることもあったから、それは少し救いになった。

 レイモンド・カーヴァーがどこかのエッセイで、彼も大学の先生だったからか、大学で文学を学ぶことの意味について語っているところがあり、正確な引用になっているかわからないけれど、「グレートライターを大学で生むことはとても難しい。グッドライターを生むことも難しい。でも、グッドリーダーになるために必要なことを教えることはできる。」というような内容だったと思う。

 自分では当たり前だったり、自分の周りの人にとっても当たり前だったりすることでも、思いのほか、結構できているということもある気がする。むしろ、自分が得意げに思っているところ、得意になりたいと思っていることは、傍から見たら結構普通のことだったりすることもあると思う。その人が特に意識しなくてもある程度できてしまうこと、えっ、こんなの普通でしょ、と思って、本人自身がそれほど得意げになれないことのほうが、傍から見たら、そんなにできるなんてすごい、と思うことは結構あるような気がする。

 それに、世界で一番得意でなくても、それは得意と思ってもいい。もちろん、日本で一番でなくても、県で一番でなくてもいい、町一番でなくても、村一番でなくてもいい。自分の親しい人たちとのかかわりの中で、少しでも得意なこと、向いていることがあって、それをすることで(または、そのようにただいることで)、少しでも喜ばれることがあれば、それは得意なことなんだと思う。

言葉の一部

誘われて、京都の大学で行われたシンポジウムに行った。

京都に行くことは、久しぶりだった。

紅葉は、場所によってはきっと見頃だったのだろうけど、きょう通ったところは色づき始めという感じだった。

研究というのは、いいなと思った。余り最近触れていない空気感だった。実現したいことはあるけど、研究そのものを純粋に楽しんでいる感じがした。問題点は感じているけれど、焦ってはいない、という感じがした。もし仮に問題がなくなったとすれば、また新しい問題に取り組めばいいのだし、焦っていないということは、それはその人にとって苦しみではないのだ、という感じがした。それはもちろん、問題を軽視していることではないだろうし、むしろ深刻な焦りがあったほうが、問題をちゃんと見れなくなるのだから、やっぱり焦ることは避けたいと思った。かといって、焦る状況にいなさ過ぎるのもどうかと思った。それで焦らないのは当たり前だけど、焦る状況にあって極力力まずに、しっかり足を踏み出したいという感じがした。前足ばかり前に出しているとバランスが崩れるから、後ろ足もしっかり引きつけたい感じがした。

今日初めて会ったばかりの学生さんと、かなり長い間話した。調べてもわからなかったことを、ひっきりなしに質問してしまったけど、全部見ごとに返事があった。単純なことだけど、このことに関して彼は僕よりはるかによく理解していた、ということだった。それはとてもありがたかった。事柄が限定的ではあっても、自分が言いたいことが全部伝わるというのは、こんなにもありがたいのか、と思った。

今、主にかかわっているのは小説ではないけれど、広い意味でその言葉言葉の意味だけではない文章のことを大事であるように感じる。自分でそういうような文章を書けなかったとしても、やっぱり心の奥のほうではとても大事だと感じる。それでも、やはり今目の前にあることは、自分に向いている感じがする。言葉を大事にするということはどこでもできるのだし、もしかしたら今かかわっている主に道具としての言葉のことも、道具ではない文章の要素の一つでそれを学んでいるのかもしれない。多分、それはそう思えばそういう経験の仕方もあると思う。でも、それを役立てようとするのはやめよう。それはつまり、そういうことになってしまうから。ただ、目を逸らさずに楽しんでやってみよう。

 

 

心の整理もかねて普段のこと

争いごとの話をほぼ毎日聞いている。内容はすぐに忘れてしまっている、と思っていても、その続きの話をまた別の日に聞くと、以前聞いた話も思い出す。なので、ふだん引き出すことはないけど、全然忘れていない。

 

どちらが正しいとか、どちらが嘘を言っているかとかは、分からない。結局そこで使われている言葉では、肝心なことはすくい上げられない。明瞭な声で話していても、実際一字一句聞いてみると、キーになる単語や、肯定否定をあらわす、ます、ません、のあたりだけ声のとおりが良いままあやふやになったり、反対にぼそぼそと喋っていて聞こえづらいなと思っても、結局最後までちゃんと全部聞き取れる、ということもある。

 

キーボードで文字を打つとき、仕事では速くするために幾つかの省略の方法を使うけれど、こんなふうに仕事以外のときは一切使わない。一度使おうとしてみたことがあったけど、すごい気持ちが悪くなって、すぐやめてしまった。同時にキーを押す、ということでは本当はもっと専門的なやり方もあるけど、親指シフトをベースにさらに同時に押す省略をつくったり、漢字変換の辞書の登録をしたりしている。でも、この文章を打っているのはローマ字打ちで、一切省略を使わずに打っています。

 

そういう表面的なことはあれこれいろいろあるけれど、同僚があるときに言った、第三者の(音声認識などの機械ではない)人間が、ちゃんと聞くということが大事、というのが一番本当であるような気がする。聞くことで、話した人からすると、その気持ちが流れた(伝わった)ということで、ほんの少し心が軽くなるかもしれないということが、ささやかなことだけれど、本当は一番大事かもしれないというか、そう想像したほうが、ちゃんとしよう、という気持ちに僕としては一番なりやすいので、ある種の信仰心みたいに、いろいろ時間的な制約も正直ありますが、極力一字一句、それが表面的な言葉であれ、嘘であれ、せめてちゃんと拾い上げることで肝心な気持ち、要するに本当に単にすれ違っているだけかもしれない、その何かにかすりでもしたらいいなと願います。