心の整理もかねて普段のこと

争いごとの話をほぼ毎日聞いている。内容はすぐに忘れてしまっている、と思っていても、その続きの話をまた別の日に聞くと、以前聞いた話も思い出す。なので、ふだん引き出すことはないけど、全然忘れていない。

 

どちらが正しいとか、どちらが嘘を言っているかとかは、分からない。結局そこで使われている言葉では、肝心なことはすくい上げられない。明瞭な声で話していても、実際一字一句聞いてみると、キーになる単語や、肯定否定をあらわす、ます、ません、のあたりだけ声のとおりが良いままあやふやになったり、反対にぼそぼそと喋っていて聞こえづらいなと思っても、結局最後までちゃんと全部聞き取れる、ということもある。

 

キーボードで文字を打つとき、仕事では速くするために幾つかの省略の方法を使うけれど、こんなふうに仕事以外のときは一切使わない。一度使おうとしてみたことがあったけど、すごい気持ちが悪くなって、すぐやめてしまった。同時にキーを押す、ということでは本当はもっと専門的なやり方もあるけど、親指シフトをベースにさらに同時に押す省略をつくったり、漢字変換の辞書の登録をしたりしている。でも、この文章を打っているのはローマ字打ちで、一切省略を使わずに打っています。

 

そういう表面的なことはあれこれいろいろあるけれど、同僚があるときに言った、第三者の(音声認識などの機械ではない)人間が、ちゃんと聞くということが大事、というのが一番本当であるような気がする。聞くことで、話した人からすると、その気持ちが流れた(伝わった)ということで、ほんの少し心が軽くなるかもしれないということが、ささやかなことだけれど、本当は一番大事かもしれないというか、そう想像したほうが、ちゃんとしよう、という気持ちに僕としては一番なりやすいので、ある種の信仰心みたいに、いろいろ時間的な制約も正直ありますが、極力一字一句、それが表面的な言葉であれ、嘘であれ、せめてちゃんと拾い上げることで肝心な気持ち、要するに本当に単にすれ違っているだけかもしれない、その何かにかすりでもしたらいいなと願います。