好事魔多し

 どうしてかはわからないけれど、そのとおりだというような気がする。自分の問題だったり、タイミングが悪かったり、それは本当はやりたくないとか、そういうようなこともあるけれど、やっぱりそのとおりだというような気もする。

 最近、文章を書くことか、人に熱心に話すことのどちらかは、一日の終わりに、きょうはやったと思う、と思いたいと思うようになった。

 人に伝えることが面倒だと思う気持ちと、部屋を片付けることが面倒だと思う気持ちは、どこか似ているような気がする。どちらも、何かに焦っているような気がするし、子供っぽい気がするし、わがままな気がする。

 映画を見たり、ゲームをしたり、運動をしてみたり、音楽を聞いてみたりするだけでは、頭の中にも心の中にもすっきりしない領域が残ってしまう。それはただ単に自分でつくってしまっただけなのかもしれないけれど、そんな領域がないと思っていた子供のころも、本当はその領域はあって、やたらわがままを言うとか、別の形であらわれていたのかもしれないから、そんな領域をつくってしまったことは、悪いとは言えない。そういう意味でも、たばこに似ている、と思ってしまう。

 たばこを吸う前から、もう少しわかりにくい形で、きっと問題はあったけど、それがニコチン中毒的なわかりやすい形になっただけなのかもしれない、と思う。ほとんどたばこは吸ったことないし、今は全く吸いたいとは思わないけど、そういうものである気がする。

 それは、どうしてかはわからないけれど、僕の場合は書いたり読んだりすることになっている。別にそれがすごいできるとか、できないとかは関係ない。ただ、身体的にすっきりするかしないかで、そうなんだというのは間違いないだけで、ほかのものに変えたい、と思ったことや、離れたいというように思うことはあったけれど、頭で考えてどうこうすることじゃないと、観念してしまったような感じになってしまった。

 仕事中、辞書を見ることがあって、時々気になる言葉、知らない言葉が目に入ります。納得してるかはともかく、最近気になったのは、「好事魔多し」の次は、「習うより慣れろ」、「巧遅は拙速に如かず」です。