体を揺すられて、目が覚めた。僕の体と一緒に、ベッドも少し揺れていた。まだ意識が半分以上夢の中にいる。肩に触れている手は、男の人のものだ。黒いシルエットが、父だと分かる。ちょっと、こっちに来て、と父は言う。僕は言われるままに、ベッドから起き上がり、父の手を握って、歩いていく。母は僕のいなくなったベッドで、夢の中にいる。
 寝室を出て、居間に行く。
 ソファの上に、僕の服が置いてあった。水色と白の横縞のシャツと、綿の薄茶色のズボンだった。それらが重ねて置いてあって、隣には、学校へ行く時以外はいつも持ち歩いている濃紺色のトートバッグがあった。
 僕に着替えるように言い、僕がのそのそと着替えているのを、父は少しもどかしそうに見守っていた。
 着替え終わると、父はトートバッグを持ち、行こうか、と言った。玄関へ行き、白のスニーカーを履いて、外に出た。父に付いてアスファルトの上を歩いていき、砂の駐車場に着いた。夜の僅かな明かりを受けて、父の軽自動車は、白くぼんやりと、闇から浮かび上がっていた。父は運転席の方に行き、僕は助手席の方に行き、そこで窓越しに見える父の様子を見ながら、待っていた。運転席のドアの鍵を開ける音は、車を伝って、こちらにも大きく響いた。父は運転席に座り、こちらに手を伸ばして、助手席側のドアの鍵を内側から開ける。僕はドアを引っ張って開け、片足を掛けて、登るように車の中に入り、助手席に座り、ドアを閉めた。シートベルトせえよ、と父は言い、鍵を差し込んで、エンジンを掛ける。僕は頷いて、シートベルトを左後ろから引っ張ってきて、右の腰辺りに、かちゃっと嵌めた。
 父はシートベルトをし、サイドブレーキを下ろし、クラッチを動かして、車をバックさせる。砂を踏み締める音が響く。後ろを振り返りながら、ハンドルを左へ大きく切る。前に向き直り、クラッチを動かして、ハンドルを反対側へ、左へ切った分より少し大目に切って、前へ進み、駐車場を出ていく。
 見慣れた景色だったけれど、外は暗くて、静かだった。
 何処へ行くの、と訊きたかったけれど、訊けなかった。今日の夜、母と一緒にお風呂に入っている時、とにかく話すようにしなさい、と母は静かな声で言った。困った事があったら、あなたの鞄に手紙を入れておいたから、読んでね、と言った。
 膝の上においてあるバックの中を覗いた。
 水彩絵の具に、プラスチックのパレット、何種類かの太さの違う筆、キャンバスノート、なんでも帳、筆箱が入っていた。なんでも帳の隙間が少し膨らんでいて、そこを開いてみたら、白い封筒があるのが見えた。
 それで良かったか、と父はちらっとこちらを見て言い、僕は頷いた。絵の具の事などを指して言っているのだと、後から思った。
 父の運転する車は、街灯の少ない、川沿いの道を進んでいく。
 最初の内は、見慣れた、いつもの景色が続く。なので、父の手は、同じ順番で、同じ方向へ、金庫の鍵を『左4右6』、と開けるように、ハンドルを回している。
 見慣れない景色になると、どきどきするような、寂しいような、懐かしいような気持ちになる。
 街中を抜けて、周りに建物がほとんどない、田畑の中を走るようになった。
 少しの間、眠っていた。
 一度か二度、見た事のある景色になっていた。遠景には、今車が向かっている三方に、黒いシルエットの山々があった。道に合わせて右に行ったり左に行ったりしながら、山の方へ向かっている、と感じていた。
 父の顔を見てみたら、笑みを浮かべていた。父がそのような顔をしているからといって、内心はどんな気持ちか分からない。本当に気分のいい時もあり、本当は苛々していたりする時もあった。体調の悪い時は、単にちょっと苦しそうな顔をするから、体の調子は悪くないみたいだった。父はいつもよりも無口だった。
 夜中に父の運転する車に乗せてもらうことは、滅多になかった。この前がいつだったか、すぐには思い出せない。
 眠たいか、と父は言う。僕は頷いた。父は申し訳ないという表情を一瞬見せた。苦い表情でも、父の表情が動いた事が嬉しかった。
 僕の表情はきっと、変わらないままだった。それでも色々と喋ってくれる父が、すごいと思った。
 畦道の端に、車を停めた。降り、と父は言い、鍵を抜いた。父は一度外に出て、後部座席のドアを開け、そこに置いてあった黒い旅行用のバッグを持ち出した。僕は少し飛び降りるような感じで降りた。目の前に、獣のような林があった。
 父はバッグを肩に掛けて、車の前に出ている。僕はバッグを右手に提げて、父のところまでちょっとだけ駆けた。
 林を巻き込むように道を左へ曲がったら、しばらく真っすぐ続いている細い道の先に、一人の人が立っているのが見えた。田んぼの脇に、外灯が何本か建っているのだけれど、光の量はそれほど多くなくて、強くもなくて、外灯と外灯の間隔も広かったから、辛うじて、それが男の人だと分かるくらいだった。その人の後ろには、空が見えないくらい大きな山があって、その人よりも光を受けていなくて暗かった。その人はじっと木のように、全くと言っていいほど動いていなくて、僕の目には全く動いていないように見えて、歩いてその人に近付いていっている途中、それは人じゃなくて人形なんじゃないか、と思える時もあった。でも、顔の表情がなんとなく見えるくらい近付くと、水の流れのように柔らかい無表情が見えて、若い男の人だと、はっきりと分かった。
 僕はその男の人に付いて、山道を登り始めた。一定の間隔を刻んで、大丈夫、と男の人は訊いてきた。僕はその度に頷いた。僕の体に触れようと、手を伸ばそうとする時もあった。少し意地になっていた所もあったし、歩ける所まで歩いて倒れてもいいと思った。
 その男の人の気弱さとも取れる佇まいが、少年の時の僕にとっては心地良かった。
 歩いている内に疲れも感じたけれど、それよりも眠気の方が辛かった。睡魔に負けないように歩いている、と、何に頑張っているのか、意地を張っているのか、よく分からなかった。
 何処かで、急にふっと楽になった感覚だけは覚えている。結局、その男の人に背負ってもらい、揺られながら背中の上で眠っている時間が、山の道のほとんどだった。
 板の軋む音が聞こえ、うっすらと目を開けた時も、背中が見えていて、障子を開けて、大きな部屋に入り、そこに降ろされて、その布団の中に入れてもらう間も、何も考えずに、心地よさの中にあって、そのまま本格的な眠りに入った。