村一番の力持ち

 紙に書くほうの日記は、時々は書いていたけれど、文量はそれほどいっぱい書くのは難しかった。5年前ほどに転職した直後は、全くと言っていいほど文章を書くことはできなくて、読むこともほとんどできなかった。

 新しい環境になって時間がなかったということではなくて、頭の機能的にその部分が壊れていたというような感じがする。今でも100%治ったというふうには感じないけれど、それは年齢の問題とかも少しあるような気もするし、文章に触れる機会も、文章に触れている時間が長い人と触れる機会も随分減ってしまったことも、大きな原因である気がする。

 それでも、長い時間、文章を書くこと、読むことをやってきたせいか、人の話を理解する力はそれなりにあるんじゃないかと感じられることもあったから、それは少し救いになった。

 レイモンド・カーヴァーがどこかのエッセイで、彼も大学の先生だったからか、大学で文学を学ぶことの意味について語っているところがあり、正確な引用になっているかわからないけれど、「グレートライターを大学で生むことはとても難しい。グッドライターを生むことも難しい。でも、グッドリーダーになるために必要なことを教えることはできる。」というような内容だったと思う。

 自分では当たり前だったり、自分の周りの人にとっても当たり前だったりすることでも、思いのほか、結構できているということもある気がする。むしろ、自分が得意げに思っているところ、得意になりたいと思っていることは、傍から見たら結構普通のことだったりすることもあると思う。その人が特に意識しなくてもある程度できてしまうこと、えっ、こんなの普通でしょ、と思って、本人自身がそれほど得意げになれないことのほうが、傍から見たら、そんなにできるなんてすごい、と思うことは結構あるような気がする。

 それに、世界で一番得意でなくても、それは得意と思ってもいい。もちろん、日本で一番でなくても、県で一番でなくてもいい、町一番でなくても、村一番でなくてもいい。自分の親しい人たちとのかかわりの中で、少しでも得意なこと、向いていることがあって、それをすることで(または、そのようにただいることで)、少しでも喜ばれることがあれば、それは得意なことなんだと思う。