雨を数える(小説)

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「私は、人と一緒に暮らすことが、難しいと感じていました。街での殺伐とした生活は、私にとってはとても簡単なことでしたが、簡単すぎて、生き辛さを感じていました。うまく行けば行くほど、追い詰められていく気がしていました。そんな生活の中で、私が愛…

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「私は長い間をこの場所で過ごしてきました。それは、妻と一緒に暮らすためでした。私はずっと、この水崎山の水の管理をして来ました。一人で行う仕事でしたので、孤独な長い時間を過ごしました。誰かがやらないといけない仕事でしたし、そのことに誇りも持…

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エスカレーターのチューブの中に入ると、駆動音が反響して聞こえた。チューブの天井は近く、居心地が悪く、戻りたい、と思ったけれど、引き返すには遅い、と思った。急いで上り切るというのも、恐いと思った。途中で疲れて動けなくなると、どうしようもなく…

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「感じは掴めてきましたか」 左隣で、岡本さんの声が聞こえ、目が覚めた。 真っすぐ顔を上げたら、紅い眩しさがあって、薄くしか開いていなかった目をもっと薄めた。 膝の上に、トートバッグが載せられた。それを見るのは、それほど眩しくなかった。 「そろ…

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「まだ、清二くんは、何も考えなくてもいい」 母の声が聞こえた気がした。 ぼんやりとして、半分眠っていて、ここは何処なのか、と思い、母は僕がここに来たこと、ここにいることを、知っているのだろうか、と、半ば自分のことを、他人事のように思った。け…

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岡本さんに近付いて、話しかけられないで立っていると、 「決まりましたか」 とキャンバスから目を離して、少し疲れたような苦い笑顔で、岡本さんは言った。少しあって、僕が首を横に振ると、 「途中でもいいですから、また描けたら見せてくださいね。ぼくは…

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街の方を見ながら、時々立ち止まり、辺りを歩いてみたけれど、中々好きな所が見つからなかった。おじいさんは絵の前で、じっと座っていた。 街の方を見るのをやめて、小屋に近付いていった。恐る恐るドアを開けて、煙の匂いを嗅いだ。何とか入れそうだと思い…

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「それは、元生くんにもらったの?」 筆を足元のパレットに置いて、振り返り、僕の持っているトートバッグの中を覗き、少年ような口調で、少し高い声で、おじいさんは言った。 頷くと、 「お茶を持ってきているから、一緒に食べようか」 と言うと、おじいさ…

林を抜けて、舗装された道の上を歩いていくと、左手に白い煙が上がっているのが見えた。その煙を見上げて、丘を登っていき、登り切る時には、煙を見下ろすようになっていた。 山の麓にある、街の姿が見えた。高い建物はなく、ところどころに森のような緑の固…

暑苦しくて、眠りの世界から少しずれた、という感じに目が覚めた。自分の汗の匂いがした。体全体が熱く湿っていて、気持ち悪かった。うつ伏せのまま、両手で布団を押すようにして、手に力の入ったまま眠っていたようだった。 まだ眠り足りないと思ったけれど…

昨日眠った部屋に戻り、隅に置いてあった自分のトートバッグを持って、公夫さんについていった。部屋の奥の襖を開けて出て、その同じような部屋も越えて廊下に出て、右に曲がり、階段を登っていった。階段の途中で緩やかに九十度に右に曲がった。その部分だ…

「お昼は皆と一緒に食べよう。それから家の中も案内するから」と公夫さんは、診療所を出てしばらくしてから言った。手は繋がずに、来た道を歩いて戻っていった。坂を下り、アスレチックが見える丘の側を通り、木々の中の、土の道に入っていった。 石の階段の…

また手をつないで、山道を歩いていった。時々すれ違う人は、「おはようございます」と笑顔であいさつをしてくれた。最初の内は、あいさつをする人もいれば、しない人もいるんだと思い、あいさつをするのをためらっていたが、皆あいさつをしてくれたし、公夫…

黄緑色の茎や、濃い緑色の縮れた葉や、生成り色の平べったい丸いものが、うどんの上に載っていた。重たい陶器の器は、じんわりと温まっていた。 「いただきます」 プラスチックの箸を僕に渡して、公夫さんはすぐにうどんを啜り始めた。急かされるような音が…

公夫さんが戻ってきて、「またせてしまってごめんね」と言った。 部屋を見回すことに飽きてからは、俯いて床の毛混のカーペットの幾何学模様を眺めたり、壁の木目や、細長い鳥を十字に交差させた紋様の天井を仰いでみたり、置いてあるものをじっと見つめたり…

意識が戻ってきて、眠ったという実感があって、まだ目を瞑っている時に、まぶたの裏に自宅の寝室の壁を想像して見ていた。右半身が布団に着いているから、窓側ではなくて壁の方が見えている気になっていた。いつもと比べて布団と枕が少し硬い、という感覚が…

体を揺すられて、目が覚めた。僕の体と一緒に、ベッドも少し揺れていた。まだ意識が半分以上夢の中にいる。肩に触れている手は、男の人のものだ。黒いシルエットが、父だと分かる。ちょっと、こっちに来て、と父は言う。僕は言われるままに、ベッドから起き…