意識が戻ってきて、眠ったという実感があって、まだ目を瞑っている時に、まぶたの裏に自宅の寝室の壁を想像して見ていた。右半身が布団に着いているから、窓側ではなくて壁の方が見えている気になっていた。いつもと比べて布団と枕が少し硬い、という感覚が、寝返りを打った時に膨れて広がって、寝室の壁は揺らいで遠くへ離れていった。
 うっすらと目を開けると、三角形の陰が掛かった、青白い障子が見える。自分の周りには幾つか自分の所と同じような布団があるようで、幾つもの人の気配を感じた。まだ肌寒い。小鳥の鳴く声が聞こえる。もう少し眠ってもいい、と思い、目を瞑る。布団の擦れる音、小さなうめき声も聞こえる。
 障子の向こう低く床に響く足音で、体が揺らされたり、布団の擦れる音が大きくなったり、違う部屋から話し声が聞こえてきたりし、朝が始まっているように感じた。自分の周りの布団にいる人達が起き出しそうか、布団に潜ったまま耳をそばだてていた。けれど、起き出す気配はなかった。そういう風に感じている時、もう目はほとんど醒めていて、もう一度眠れそうにもなかったけれど、起き出すにも起き出せなかったから、布団に潜ったまま目を瞑ってじっとしていた。
 障子の開く音がして、足音がこちらに近付いてきて、僕の側に膝をついた。清二くん、と声を掛けられ、僕の体は驚いて震えた。その声は昨日の男の人だった。布団から眠たそうに、半分眠っているように顔を出して、細い目で男の人の顔を見た。起きて、ちょっとついてきて、と言われ、僕は布団から出て、立ち上がった。昨日の事を漠然と少し思い出した。
 障子の外に庭の緑色が見えた。まだ肌寒かった。板の廊下に出て、庭の上の空を見て、まだ早朝だと思った。部屋を出て右に、人二人分くらいの幅の廊下を歩き、突き当たりを右に曲がり、建物の内側に入っていき、薄暗い廊下を歩き、左手のノブの付いた木のドアを開いて、男の人は入り、僕も付いて中に入った。
 そこは洋室で、部屋の真ん中に低い濃い茶色の卓袱台があり、その奥の、机と同じような色のソファに男の人は座った。そこに座って、と手の平で、卓袱台の左にある、男の人の座ったソファの半分くらいの大きさのソファに、僕は座った。
「昨日お父さんと話して、清二くんにはしばらくここで住んでもらうことになったからね、徐々に慣れていってね」
 と彼は微笑んで僕に言った。公夫です、どうぞよろしく、分からないことがあったら何でもきいてください、と彼は言った。
 公夫さんの後ろには、男の人の上半身辺りの高さと幅の窓があり、そこからさっきと別の庭らしき空間の、一本の表面の滑らかな木と、その向こうの白い塀と、鉄のような色の瓦が見えた。
 ドアを二度叩く音がして、はい、と公夫さんは言った。
 失礼します、と言って入って来たのは、僕と同い年くらいの女の子だった。
「どうしたの」
「真澄くんが、廊下で転んで、鼻から血を出しています」
 公夫さんは、ちょっと待っててね、と僕に言い、立ち上がって、どこ、と女の子に言いながら部屋を出ようとした。女の子は公夫さんの顔を見上げて、来た道に向き直って歩き始める少し前、一瞬だけ僕の顔を見た。怒っているようにも、笑っているようにも見える、女の子特有の、緊張した面持ちだった。女の子はすぐに目を逸らし、公夫さんは部屋を出てドアを閉めた。
 カチャッ、と、ドアノブの少し上の、ドアの側面についている三角形の出っ張りが、壁の内側に嵌った後、音の聞こえ方が変わった。聞こえる音の背景が、張り詰めた水面のようになった。
 ドアのすぐ左の壁に、銅の額に縁取られた絵があった。画面の手前の少し右寄りの所に、黒々とした木に背中を預けて、草の上に座っている女性がいる。女性は、黒いドレスを着て、頭にはつばの広い帽子をかぶり、白い背表紙の文庫本を読んでいる。うっそうと茂って、奥は底なしに続きそうな深い緑が画面いっぱいに潤っていた。
 ドアの向こうから、子供の泣き声が聞こえた。何か喋ろうとしているような声だった。大丈夫、と女の子の声が聞こえる。泣き声は女の子か男の子か分からなかった。
 何人かの足音が近付いてきて、また少し離れてすぐに、横開きの戸が開いて閉まる、がらがら、がらがら、という音がした。砂を擦る音が、窓の外から聞こえた。僕は立ち上がって、窓の側に行き、外を覗いた。
 公夫さんが先頭にいて、さっきの女の子と、もう一人の女の子が、真ん中の男の子の両隣にいて、小走りに僕の視界の手前に近付いてくる。僕は咄嗟に屈み込んで、窓に背を向けた。
 男の子の泣き声と、女の子の明るい声が背中を通り過ぎてしばらくして、僕は元座っていた所に戻った。
 父は、母は、今どうしているのだろう、と思った。
 休みの日に、山の中にある親戚の家に顔を出しに行き、親戚は料理を作りに台所に、またはお土産を取りに納屋に行っていて、それに母も付き合っていて、父はトイレに行っているというような時と同じようだった。