言葉の一部

誘われて、京都の大学で行われたシンポジウムに行った。

京都に行くことは、久しぶりだった。

紅葉は、場所によってはきっと見頃だったのだろうけど、きょう通ったところは色づき始めという感じだった。

研究というのは、いいなと思った。余り最近触れていない空気感だった。実現したいことはあるけど、研究そのものを純粋に楽しんでいる感じがした。問題点は感じているけれど、焦ってはいない、という感じがした。もし仮に問題がなくなったとすれば、また新しい問題に取り組めばいいのだし、焦っていないということは、それはその人にとって苦しみではないのだ、という感じがした。それはもちろん、問題を軽視していることではないだろうし、むしろ深刻な焦りがあったほうが、問題をちゃんと見れなくなるのだから、やっぱり焦ることは避けたいと思った。かといって、焦る状況にいなさ過ぎるのもどうかと思った。それで焦らないのは当たり前だけど、焦る状況にあって極力力まずに、しっかり足を踏み出したいという感じがした。前足ばかり前に出しているとバランスが崩れるから、後ろ足もしっかり引きつけたい感じがした。

今日初めて会ったばかりの学生さんと、かなり長い間話した。調べてもわからなかったことを、ひっきりなしに質問してしまったけど、全部見ごとに返事があった。単純なことだけど、このことに関して彼は僕よりはるかによく理解していた、ということだった。それはとてもありがたかった。事柄が限定的ではあっても、自分が言いたいことが全部伝わるというのは、こんなにもありがたいのか、と思った。

今、主にかかわっているのは小説ではないけれど、広い意味でその言葉言葉の意味だけではない文章のことを大事であるように感じる。自分でそういうような文章を書けなかったとしても、やっぱり心の奥のほうではとても大事だと感じる。それでも、やはり今目の前にあることは、自分に向いている感じがする。言葉を大事にするということはどこでもできるのだし、もしかしたら今かかわっている主に道具としての言葉のことも、道具ではない文章の要素の一つでそれを学んでいるのかもしれない。多分、それはそう思えばそういう経験の仕方もあると思う。でも、それを役立てようとするのはやめよう。それはつまり、そういうことになってしまうから。ただ、目を逸らさずに楽しんでやってみよう。