「お昼は皆と一緒に食べよう。それから家の中も案内するから」と公夫さんは、診療所を出てしばらくしてから言った。手は繋がずに、来た道を歩いて戻っていった。坂を下り、アスレチックが見える丘の側を通り、木々の中の、土の道に入っていった。
 石の階段の前まで戻って来た時、「きついと思うけど、頑張って登りましょう」と言った。
 階段の真ん中を仕切る手摺りを掴みながら、一段一段を登っていった。足元を見て、転ばないように、ゆっくり登っていった。上を見ないように、言葉で何も考えないように、同じ動作をちゃんと繰り返すことだけを望むように。段々と体が熱くなって、汗も出て来て、自分が石の階段を踏む音、自分の呼吸の音、心臓の揺れ、汗の匂いも気持ちよく感じるようになり、よりリズムよく、少しペースも上がって、登るようになった。先に掻いた汗が冷えるようなタイミングで、気持ち良さ、一定のリズムの中にいるような間隔も消えて、また一歩一歩、それぞれに体力を着実に消費している、一段を登る、という細切れの作業の積み重ねに戻った。疲れは徐々に溜まっていきながらも、そのような時間を交互に繰り返して、ふと上を見上げたら、輝いている水色と、階段の終わりが見えた。
 昨日眠った、瓦葺きの部屋の建物に向かって、呼吸を整えながら歩いていった。
「よく頑張ったね。すごい汗だな」と公夫さんは言い、僕は「疲れた」と言った。「まずは体を拭こう。お風呂にも入ろうか」と言われ、僕は首を横に振った。「いいの?」ともう一度公夫さんは訊き、僕は首を縦に振った。
 建物の前に着いた時、玄関が開き、全身を黒い布で覆い、黒い鍔の広い帽子を目深に被り、顔を黒のレースで隠した体の大きい人が出て来て、公夫さんに会釈をして、すれ違っていった。
 公夫さんも会釈を返していた。僕にされたものじゃないけれど、僕も自然に会釈を返していた。さっきのあいさつの癖が、まだ残っていたからだと思う。
 玄関に入った時、左の廊下から背が低く、顔も小さい、若い男性が出て来て、「津川くん、悪いけど、バスタオルを一枚持ってきてくれないかな」と公夫さんは声を掛けた。
「はい」と津川さんは言い、右側に去っていった。低い太鼓のような音が、建物のあちこちで鳴り、玄関を上がってすぐの床も、柱も揺らしているようだった。津川さんの足音は消えるか消えないかくらいのところまで離れ、また大きくなりすぐにまた目の前に現われた。手には白い、使い込まれた少し固そうなバスタオルがあった。公夫さんはそれを受け取ると、まずは僕の頭に被せ、視界を覆った。シャンプーハットを使わずに、母に頭を洗ってもらった時のことを思い出した。暗い所と水には慣れなかった。すぐに視界は開けて、少しだけ目に映る物が鮮明になったように感じていたけれど、シャツの中にタオルを入れて体を拭いてくれたり、腕や脚を拭いてもらったりしている間に、その視界に慣れて当たり前になった。公夫さんは津川さんにバスタオルを返し、その時に僕は津川さんの体を見て、左腕が見えない事に気付いた。津川さんは片手でバスタオルを受け取った。
 公夫さんは靴を脱いで上がり、思い出したように、「これは僕が置いてくるから、先にこの子と一緒に食堂に行っててください」と津川さんに言い、バスタオルを受け取った。
 津川さんは頷き、僕の顔を一度見て、向き直って、中庭の見える廊下を歩いていった。一度振り返った時、公夫さんが中庭越しに見えた。
 すれ違った女性に会釈をしていた。
 左手にある、昨日眠った部屋の障子が開いていて、中が見えた。畳に、小さい布団が八つ敷いてあった。
 きれいに整えられていた。
「いつからここに来たの?」津川さんはちらっと振り返って言った。
「昨日からです」
「そう、朝は何処かへ行ってきた?」
「うどんのお店と診療所に行ってきました」
「そう、おいしかった?」
 僕は、はい、と言って頷いた。渡り廊下は、軋みの音を立てていた。庭の砂利を鳴らしながら歩く、男性3人が見えた。
 短い階段を登って、同じような建物の、障子を開いて中に入ると、そこには端が見えないほどの広い座敷があり、小さい卓が整然と、ずらりと並べてあり、それぞれの卓の前に座布団も整然と並んでいた。部屋の奥の開いた障子の合間から行き過ぎる人の姿がちらちらと見えるだけで、部屋の中には人はいなかった。津川さんは入ってすぐの、右隅に座り、僕はその隣に座った。座布団の色はすべて臙脂色に統一されているようだった。濃い茶色の卓の上には、伏せたお茶碗と、箸が置いてあった。
 津川さんの右側は壁で、部屋の後の三面は障子で、それぞれ一箇所ずつ開いていて、奥から、左から、後ろから、人が入ってきて、徐々に席が埋まっていった。それぞれが、別々の格好をしていて、全身黒ずくめにしている集まりや、その反対に白ずくめの集まりや、帽子を被っている集まりもあった。
 子供もいたけれど、僕よりも年上の人がほとんどだった。さっきアスレチックで見た、と左から入って来た時にすぐに気付いた女の子と、その子と一緒に入って来た女の子は、僕と同い年くらいに見えた。左隣に大人の男の人が座る気配がして、父親のことを思い出した。隣に座ったのは公夫さんでもなく、見知らぬ寡黙そうな、人嫌いそうなおじさんだった。話し声の散らばりでざわざわしている中、すっと座る音だけ立てて、目の前に公夫さんが座った。
「お腹空いてる?」と公夫さんは言った。
 僕は、辺りを見回していた。もう人がぎっしりと部屋に入っていたので、二つ先の列くらいまでの人達しか見ることが出来なかった。
 僕は首を縦に振ったが、まださっきのうどんが残っていて、体も少し冷めてだるくなっていたから、もう一度眠りたいと思っていた。
 奥の方から、薄茶色の着物を着た女性と男性が何人か入ってきて、部屋の左端に間隔を置いて立ち並び、持っていた炊飯器を置いた。同じ着物を着た人がまた何人か奥から次々とお盆を持って入ってきて、そこに茶碗が載っていたり、小鉢が載っていたりした。卓の前に座っている人達は静かになり、じっとしてい、着物を着た人達が部屋に徐々に浸透していく水のように、卓の並ぶそれぞれの列に入っていった。僕の前の卓にご飯の盛られたお茶碗を置いた人は、若い女性だった。
 眠たくて、一口も食べられない、と思っていたけれど、小鉢に入っていた柔らかく冷たい人参を口に含んで、一口齧って、温かく湿ったご飯を口に入れると、幾らでも食べられるような気持ちに変わった。眠気も少しだけ脇に退いて、食べ終わるのを見守るようになった。あっさりとしたレタス、いんげん、さといも、人参の煮付けと、豆腐と厚揚げの入ったお味噌汁と、焼いた鮭の切り身がおかずだった。
 おかわりしてもいい、と公夫さんは言ったけれど、立ち上がったら眠気がまた自分の中心にやってきて、続きを食べられなくなりそうだと思い、ご飯は少しずつ食べた。