暑苦しくて、眠りの世界から少しずれた、という感じに目が覚めた。自分の汗の匂いがした。体全体が熱く湿っていて、気持ち悪かった。うつ伏せのまま、両手で布団を押すようにして、手に力の入ったまま眠っていたようだった。
 まだ眠り足りないと思ったけれど、暑さに追い出されるようにして、眠気は去っていって、僕は自然に体を起こすことになって、しばらく納得が出来ないまま、布団に座っていた。
 じっと目を瞑って座っていると、暑苦しさと、頭の重たさは和らいでいって、目を開ける気になって、立ち上がろうという気になった。
 背中の方から涼しい細い風が吹いて来ているのを感じて、振り返って目を開いた。
 少し開いた襖の隙間から、廊下から、風が吹いて来ていた。
 立ち上がって、襖を全て開いたら、誰かがそこにいたような気配があった。廊下に出て、隣の部屋の襖を片手でそっと開いていった。その途中で誰もいないと分かった。
 部屋に戻ってトートバッグを持ち、部屋を出た。
 階段を降り始めて、2段目を踏んだ時、その木の階段は大きな音を立てて軋んだ。一瞬立ち止まって、耳を澄ませたけれど、聞こえてくる音に変化はなかった。
 階段を降り切ったら、公夫さんの声が小さく、何処かでしているのが聞こえた。
 聞こえて来たのは、今朝案内された洋室からだった。
 何を話しているのかは聞こえなかったけれど、四人くらいがテーブルを囲み、ソファに座り、会談をしているようだった。
 その部屋に向かおうとする足を、左へ向けて玄関へ行った。そこには、僕の靴だけが置いてあった。上がり框に座って、靴を履いて、音を出来るだけ立てないように横開きの戸を開け閉めした。
 公夫さんのいる部屋の窓は開いているようで、中からの声が漏れてきていた。
「今週入ったのは十人でした。下りられたのは五人でした」
「そう、あまり実感が沸かないね」
「今ここには何名いますか?」
「……五百三十名です」と少し間を置いて答えたのは公夫さんだった。
「斉藤さんが居たときはどれくらいでしたか?」
「二百人くらいいたんじゃないか」
「それでも多いという感じですね」
「いや、まだまだ増えていくでしょう」
 着ている服はばらばらだったけれど、皆麦わら帽子を被り、籐で出来ているような籠を担ぎ、白の手袋をした人達が、長い長い階段の方へと、歩いていっているのが見えた。公夫さん達の話している声は、嬉しそうでも悲しそうでもないように聞こえた。でもどちらかの感情を隠しているような気がした。麦わら帽子の人達が歩きながら話している声は小さくて聞き取れなかった。時々顔を見合わせながら話していた。
 あの階段から、もう一度下の景色を覗いて見たいと思い、階段の向こうに見える木々を見つめて、麦わらの人達から少し離れてついていくように歩いていった。
 前を歩く人達の姿が消えたら、すぐそこが階段だった。階段に足を掛けて、下を見たら、さっきまでと同じ人達が目に入った。
 その一人のおじさんが立ち止まって振り返り、「何処へ行く?」と言った。うどん屋さんへ、と咄嗟に言った。
「気さくな人でしょ、元生さんは」
 僕は頷いた。少し間があって、おじさんは前に向き直った。
 目の前に大きい背中があって、その陰に触れながら歩くのは、ほっとすることだった。でも同時に、たった一人で歩いていることも、強く感じた。俯きながら、半分意識を無くして歩いていると、階段の終わりに着いた。突き当たりにあるうどん屋の手前で、おじさん達は、左へ続く道へ歩いて行った。僕はしばらく、一人で歩く気持ちの持ち方を忘れて、立ち尽くしていた。丘の上の、白い小屋の事を思い出して、おじさん達とは反対の道へ歩いていこうとしたら、「セイジくん」と店の中から声がした。そちらを向いて、元生さんが腰を屈めてのれんの下からこちらを覗いているのが見えた。「今出来たばかりだから、これあげるよ」と、薄い木の皮でくるんだ楕円形のものを、僕の両手の上に載せた。
「何が入ってるの?」
「あんころもちだよ。見晴らしのいい所で食べたらいい」
 その、木の皮に包まれたあんころもちを、トートバッグの中に入れ、朝と同じ、木々に囲まれた山道を歩いていった。その一番広い道を進んでいけば、アスレチックのあった広場に出られて、その何処かに、あの丘と小屋があるはずだった。途中、左へ右へ延びる道があった。その向こうから、人の話し合う声や、葉や枝と人が触れる音が聞こえてきた。前からは、一度、階段を降りる時に前にいた人達のような、籠を背負った人達とすれ違った。あいさつをすることは出来なくて、その人達からも声を掛けられることはなかった。籠には、いっぱい物が詰まっているようで、担いでいる人が歩く度に、重たそうな、溜めのある、回数の少ない揺れをしていたけれど、音はほとんど聞こえて来なかった。草がぎっしりと籠の中に入っている様子を思い浮かべた。しばらくして、元生さんの声が聞こえたと思って振り返ったら、籠を足元に下ろしたおじさん達と、元生さんが話をしていた。籠の中にはやはり草が入っているようだった。籠ごとに、違う形、色をしたものが入っていた。細長いもの、緑色のもの、黄色のもの、短いもの、固そうなもの、さらさらしていそうなもの。元生さんは手振りを交えて、おじさんたちに何か指示をしているように見えた。その最中、目が合ったような気がし、僕は前に向き直って、また緩やかな上り坂を歩いていった。