『文学と人生』

 万年筆が、洗濯機から出てきた。あるシャツの胸の所に青黒い染みがあったのは、そういうことだったのか、と気付く。でも、万年筆はぴかぴかになっている。部屋を少しだけ片付けて、瞑想をするが、すぐに眠ってしまった。なんとか起き上がって、洗濯物を干して、外出。
 とりあえず外に出て、歩いてみれば、頭の血行も良くなり、考えもうまく回る。ゆっくりとお風呂に入って、眠った後の散歩なら、そのようになるはずだ。
 フリーペーパーを、少しやってみたいと思った。二人か三人、顔が思い浮かぶ。他の人々は、僕が誘わなくても、それぞれの活動があるだろうし、そちらの方がしっくり来ると思う。やるとしたら、デザインももうちょっと考えたい。2色でも、4色でも、もっと出来ることはある気がするし、見た目だって大事だし、やってみて面白いと思う。フリーペーパーを置かせてもらえる所ってあるのだろうか。予算はどれくらいになるのか。インタビューとか、対談も載っていいかもしれない。
 一人で出来ることがあるとしたら、ホームページだろうか、それは、誰かの役に立つだろうか。
 小説を書くことは、誰かの役に立つだろうか。自分の為だけなのだろうか。自分の為にもなっているのだろうか。このように文章を書くのは、何度も書いているが、自分がばらばらになってしまわないためだ。心の整理というか、自分が何を考えているのか知るためにやっているけれど……。
 自分の為になることが、ひいては人の為になるというのは、文章が間接的に役に立っているということだ。直接的に役に立つということは、文章を読んでもらう、少なくとも目に付く所に置いておく、ということだ。必要だと思えば手に入る所に置いておく。インパクトとしては、紙の形は強い。範囲という意味では、インターネットの世界は広い。インターネットの世界に、少しでも心を込めるなら、手作りのホームページの方がいいだろう。ブログじゃなくて、色々触っていたら、自分でも作っているという実感があるだろうし、デザインも実際の作業として出来るし、思い入れも出来て楽しいだろうし。とても閉じてしまった今の生活から、少しでも外へ広がるきっかけとして、自分の名刺がわりとしても、それはいい試みなんじゃないだろうか。
 写真も載せたらいいだろうし、過去の小説だって載せてもいいし、エッセイも載せたらいいだろうし、仕事の事も載せたらいいだろうし、自分の形が出るようにやればいい。それは恥ずかしがることじゃない。ブログは手軽だけれど、得られるものも軽いかもしれない。フリーペーパーをやるとしたら、問題はいろいろある。でも僕は、編集やデザインをやってみたいのかもしれない。
 短編小説を書いてみたい。口に出したら、文字にしたら全て終わると思わずに、秘すれば花も真実だけれど、少しは支離滅裂に、オープンに、何かを書いてみたい。人間に対する興味があれば、きっと文章は生まれる。支離滅裂に。
 過去に校正者の小説家はいたのだろうか。編集者、記者は聞いたことがある。記者の中には、校閲者もいただろう。
 文章を書けば、うまく行けば、心の汚れを取ることが出来る。もっとうまく行けば、読んだ人も、心の汚れを取ることが出来る。『優しい瞳』『戦友』『助手席』、僕も、文章を書いてきたんだなぁと思う。短編小説を書くなら、分かりやすくテクニックとか使って、分かりやすいサービスのある小説を書いてみたい。面白いのは、人と人の関係だ。何かをすることが面白いとしても、それは、人の存在が前提になっているからだ。僕は、僕のことが、好きなのかどうか、よく分かっていない。一人で過ごす時間が長いけれど、それでいいのだろうか。最近少し仕事が楽になっていて、改めて仕事以外の生活をどうするか、という問題が浮き彫りになってきた。そろそろ、仕事の事だけではない、生活のことを考えないといけない、ということなのだろう。一人の生活が充実していないと、誰かと一緒の生活ということも、僕の場合考えづらいだろう。依頼心が強い、というのは本当のことだ。
 こうやって文章を書いていると、自分の体に、生気が戻ってきている感じがする。僕は元々、何かを考えるということが苦手な質だし、放っておいたら、多分何も考えないだろう。感覚的に、動物的に生きてしまうだろう。文章を書くことによって、僕はようやく考えることが出来る。書いていない時に頭に浮かんでいることは、考えのような形を取っていたとしても、ほとんど全てが感情か、感覚かのどちらかだ。まだ感覚の方が、考えられている、と言えるだろう。僕は感覚の記憶(マーク)を使って、それを組み合わせて、行動したり判断したりしている。言葉が、理性が判断基準になることは少ない。
 小説を書いている間、小説のことを考えている間、人間に一番接近している、そうでなければ、小説を書く意味がない、と小島信夫さんは言っている。接近することには危険が伴う。でも近付きたい。小説から離れたいけれど離れられない、というのは、人間に対しても同じだ。近付きたいけれど、怖い。怖いけれど、近付きたい。
 きっと放っておいたら、僕は何も考えない、と書いたけれど、言い換えれば、人に近付こうとしない、ということかもしれない。無機質に、淡白に、機械的に、冷たく、人に近寄らずに、生きてしまうのだろう。
 僕は基本的に心が荒れていて、混乱している。それをなんとか常識的にしようとして、機械的に見えるのだと思う。
 喫茶店は、小さな映画館だ。コーヒーと、ノートと鉛筆、文庫本一冊あれば、色んな関係を作るのに充分だ。
 色々と文を綴ることによって、生気が戻ってきたら、誰かと会っても、楽しく会話できる気がする。心の中がほぐれて、温かくなったら、豊かな言葉が生まれてくる気がする。
 とりあえず僕に出来るのは、このように文章を書くことと、人前に出すことだ。ホームページを作るのも、趣味としてはいいかもしれない。でもやっぱり、メインには文章を書くことと、それが読めるようにすることだ。それが出来たら、他の人を誘って、何かをすることを考えたらいい。
 生活にしてもそうだ。先ず自分一人で生活がよりよく出来るようになってから、誰かをその生活に誘う、という順序だと思う。
 狭くなりかかったら拡げる、というやり方でやりたい、と小島信夫さんと森敦さんの間であったそうです。


対談・文学と人生 (講談社文芸文庫)

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