眠っている時に見る夢を物語にしようとすること

 自分の普段の生活からかけ離れている何かがあり、それがどういうことなのか分からない、けれど筋はある。その筋にも、破綻している所や、理解できない所があるとしても、筋があるだけで、それは何かを思わせる。何かを思わせる、というのは、それがリアルに感じる、ということで、そう感じられれば、モチベーションになる。そういう夢は、書いてみたい、と思う。自分が、起きている間に考えた筋は、いつからか、全くリアルに感じられなくなってしまった。夢を理解しようとして、補足のように考えた筋だけは、リアルに感じられる。それは読解であって、自分が創った、という感覚はほとんどない。考古学者が、古代の何かを掘り出して、そこに書いてある文字を解読するために色々な仮説を立てる、ということと、同じもののように感じる。答えは、決まっている。それは、もう自分以外の誰かが出してくれている。それを知るため試行錯誤する、ということになる。試行錯誤することによって、答えを出そうとしているのではなくて、話を最後まで辿り着かせようとしている。答えを見つけたように補足の筋を考えて書いていても、必ずあちらこちらで行き詰まる。その時考えるのは、どうやったら自然に最後まで辿り着くのか、ということで、この時点では、もう夢とか答えとかと考えてはいず、目の前の物語に向き合っている。最後まで辿り着いたときに、自分が初めて、もしくは改めて、何かに気付くことが出来たとすれば、何かを掘り起こすことが出来た、ということになり、癒されることになる。

書くか書かないかの違いは、答えを見つけたように筋を決めて考えていても、書いていると行き詰まる、という点で、言い換えれば、行き詰まらないなら、書くか書かないかの違いはない、ということになるし、行き詰まって欲しくないけれど、行き詰まらない時点で、書くことに失敗した、ということになってしまう。