苦しみと感謝

1日、1日過ぎていくのが早い。お盆休みの時間が、一年の半分くらいのようだ。
心は苦しみと、感謝の中にある。
短編小説を書いてみようとしている。
欲張らずに、まっすぐ書いて、足りなかったら、後から書き足せばいい。
良い幻が、少しずつ見え始めている。
僕にはそれを、直接誰かに影響させる能力は、今の所はなさそうだ。
言葉の形にして、表現しないと、伝えることはできないようだ。
仕事をしながら、小説を書く心境をみつける必要がある。
鮮やかな文章を書こうとする必要はないのかもしれない。
正確な文章を、見つけようとすればいい。
表現、と考えず、その精度を守ることだけを、考えたほうがいい。
文章から、離れようとする必要はない。
あの人にも、会いにいけないと思っていたけど、いろんな人たちのお陰もあって、行くことが出来た。
片思いでも、切れなければ、両思いのようなものだ。
導かれたのだとしても、自分が求めたのだとしても、それはきっと、深層意識では同じことで、求めていたから、叶うのだと思う。叶うことも、叶わないことも、大きく言えば全て、自分が望んだことと、思えてきている気がする。
意識がなくなってしまう、ことが必要なのかもしれない。
何にも囚われず、自分に正直に生きる。そう考えたときに必要な覚悟は、今の所、食べていけなくてもいい、と思うことだ。喜びも悲しみも、全て心の中にある。
今必要なことは、休養、だと思う。それを手に入れるためにはどうすればいいか。とにかく、自分を喜ばせること、甘えさせる方法を考えることだ。それが出来なければ、人に対してもそうすることが出来ない。
一番求めているのは、言葉の癒しだ。覚えていないところで、言葉によって、ひどく傷ついた。それが、心を荒れさせた。疲れさせるのは、人の凶器としての言葉であり、声であり、休ませるのは、人の優しい光をもった声であり、言葉だ。
苦しみと感謝から生まれた肯定的な声と言葉が、必要となる。
『雨を数える』をやめるつもりはない。あのほうが、今書いているこれよりも、よっぽど日記で、こっちは考えかたばかり書いている。その方が楽だから、というもあるし、あれは、終わらなくてもいい。僕が死んで、それで終わりということでもいい。小説が終わるのが難しいのは、語り手の存在の解決が難しいからだ。三人称にしても、一人称にしても、その存在の身の処し方が、行く末が、見えるように感じられないと終われない。そのあと何かがずっと続くような、もしくは、そこでぱったりと切れてしまう何かが必要になる。語り手という存在は不自然なもので、信用しきれないもので、その存在の不自然さは問題にしないのが小説の前提となっていることが多いのかもしれないが、そこが一番の読み所じゃないか、という考えで、僕はずっと読んだり書いたりしているような気がする。