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「私は長い間をこの場所で過ごしてきました。それは、妻と一緒に暮らすためでした。私はずっと、この水崎山の水の管理をして来ました。一人で行う仕事でしたので、孤独な長い時間を過ごしました。誰かがやらないといけない仕事でしたし、そのことに誇りも持っていました。仕事をする時は一人でしたが、私と同じ仕事をする仲間がいました。仕事をしている時、私はその仲間たちのことを思って時間を過ごしました。仕事のことを考えるよりも、その方が色んな事に気付ける気がしました。家で待っている妻のことを考える時も時々ありましたが、それは極力避けるようにしました。帰りの道についている時、今日一日仕事をした、という気持ちに翳りが起きたからです。その孤独な仕事は私が自分で選んだものではありませんでしたが、私に向いていたものでした。それに、その仕事をし続けることを選んだのは、私です。私が孤独な時間を過ごすことで得られるものは、当たり前の生活です。安心できる水が絶えずみなさんに届けられること、妻との一緒の生活を続けられることです。当たり前のことですが、それはともても大きな恵みでありました。妻はまだここでやるべきことがありますが、私のここでの役目は終わりました。妻を訪ねて時々はやってくると思いますが、これからは昔住んでいた場所に戻り、ここで学んだことを活かして新しい仕事をしたいと思います。妻のことが心配でないと言えば、嘘になります。ただ、私がいなくなっても、妻にはここでやるべきことがあり、また私の代わりに妻のことを気にかけてくれる人も現れます。今はまだ、ほんの少し未練がありますが、自然の流れに従って、新しい場所、仕事に集中したいと思います。妻が今の役目を終えて、山を降りることになった時には、かねてから約束をしていた、日本の色んな場所への旅行を二人でしようと思っています。みなさん、これまでありがとうございました。外からですが、お手伝いさせていただくこともあるでしょう。微力ですが、応援させていただきますので、みなさんもそれぞれの役目に懸命に励んでください。本当にありがとうございました。幸せな時間でありました」


『川の中央辺りの盛り上がって干上がっている所に、鷺が一羽、立っていた。まだ時間に余裕があったので、橋をゆっくり歩きながら、鷺の動きを眺めていたが、脚は少しも動かさなかった。風は冷たく、澄んでいて、外に出ている存在は、自分とその鷺だけのような気がした。車が通り過ぎる音も、人工的には聞こえず、強い風のようだった。
橋を渡り、家々の間の曲がりくねった細い道を抜けると、田んぼが両側にあり、前方の遠くに山々が見える、開けた道に出た。緩やかな上り坂を歩いていった。途中、左に折れて、急な上り坂を歩いていった。自然と下向き加減で歩くことになり、すぐ近くに来るまで門の存在に気付かなかった。蝶番を外すと、白銀色の鉄の門を押して、少し開いて中に入った。上り坂は同じように続いていたが、先の景色は少し開けて、空が近くに感じた。少し行くと、砂の平地に出て、水の流れる音が聞こえた。マーブル色の石敷きの、細い人工の川は円になっており、その円に囲まれた中央には噴水があり、川に水を送っていた。円から伸びた川の一筋は、山を下っていた。先を見下ろすと、下にも同じような噴水と川があり、別の場所へ伸びていた。その水は、すぐ上に見えるダムから流れてきた水に違いなかった。突然に、水の先を辿ってみたい衝動が湧いた。けれど、そのような衝動に素直になることは、これまでにもう十分やったはずだ、と思い直した。今の自分には、全てのことに素直になる時間はなかった。けれど、本当は元々そんな時間は用意されていなかった。
時間が少なくなって、一つのことに集中すること、何にも集中しない時間が増えた。それは私が身に付けたことの中で、最も有意義なものだと感じた。
背丈の十倍くらいの高さの壁があり、左側は山の斜面に食い込んでいた。右側に小さな、と言っても人一人分の高さと幅のある透明なドアがあった。透明なノブを回すと、当たり前だがドアが開いたが、透明なものを持って回すことが不思議に感じた。その細い通路は、空気がひやりとしていた。わずかに白みがかった色をしていた。左右には緩やかで水量の少ない滝がずっと先まで続いていた。天井と滝とは、通路は硝子で隔てられ、滝と天井の隙間の空から、明かりが射し込んでいた。滝から落ちた水は、通路の側溝を、私が歩いて行く方向に流れていた。絶えず、微かな白い雑音が鳴り続けていた。
色の違う煉瓦を不規則に並べた壁があり、取っ手のついていない両開きの白い扉があった。近づくと、自動で開いた。中は四面とも白い壁の、狭い部屋だった。正方形の赤い絨毯が敷いてあり、部屋の端には本棚が置いてあった。背表紙は全て真っ白だった。一つを手にとって中身を見ると、両親が明日帰ってくる、どういう顔をしていいか分からない、と鉛筆で書いてあった。
入ってきた部屋のドアが開いた。本は咄嗟に本棚の上に置いた。小さな部屋を出ると、大理石の床の、精密機械ばかりの大きな部屋に入った。大学の講義室のように、段違いに席があって、下りの階段が幾つか部屋の奥に向かってあり、奥の壁には映画館で見るような大きなスクリーンがあった。席の一つ一つに黒いノートが置いてあった。階段を下りて行っているとき、スクリーンの前に人が一人立っているのが見えた。こちらを見ていると思ったら、スクリーンの方を見上げていた。髪を後ろで一本に結んでいた。スクリーンは真っ白で何も映し出されていなかった。義和くん、だよね、よろしく。と振り返ってその女性は大人の笑顔で言った。でも、前歯が少し覗いていた。直感的に、自分にも他人にも厳しい人だと思った。今の自分に合っている人だと思った。もう漠然と広がりたいと思ったり、何処か別の場所に行きたいと思うことから卒業したいと思った。言い換えれば、私は、何処にも行きたくない、とはっきり思い続けてきたということだった。』