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「私は、人と一緒に暮らすことが、難しいと感じていました。街での殺伐とした生活は、私にとってはとても簡単なことでしたが、簡単すぎて、生き辛さを感じていました。うまく行けば行くほど、追い詰められていく気がしていました。そんな生活の中で、私が愛したのは、恋をすることでした。恋には、すべてがありました。悩むことも、譲ることも、喜ぶことも、楽しみも、感謝も、情熱も、心を許すことも、すべてです。恋は、私にとって、飽きることのない挑戦でした。けれど、いつまにか、うまく行かなくなりました。依然、喜びはありましたが、挑戦ではなく、楽しみ、趣味にだんだんとなっていきました。私にとって、恋は成就するにしてもしなくても、難しいものではなくなっていきました。むしろ、だんだんと無意識に、成就しない方向を選び取るようになっていきました。今は、私は、美羽のことを考えています。どういう気持ちで考えているかは分かりません。ただ、一緒に住む方法はないかと考えるようになりました。一緒に住むことは難しいと思っていましたが、嫌だとは思っていませんでした――思っていたかもしれませんが、それは恋の苦しさと、正反対のようでいて、本当は似ているような気がしていました。私は止まってしまって、どこにも流れていかなくて、死んでしまうことを怖れていました。それなら、いっそ死んでしまったら、そのような考えに停まることから、逃れられると思いました。でも、美羽のことは、別のもう一つの道になっているのが見えました。私が、苦手で、しかもやりたいと思えることは、恋以外にありませんでしたが、美羽とは、一緒に生きていきたいと思いました。彼女が、自分の子供なのかどうかも、分からなくなる時があります。それでも彼女は、お母さん、と呼んでくれます。お母さんと呼ばれると、不思議な気持ちになります。私の今までの人生がすべてなかったことになって、新しい、新鮮な、光り輝いた別の人間になって、ドラマの主人公であるような気分になって、見える景色が明るさを増したように感じられます……でも、それも嘘なのかもしれないです。私は、まだ信じ切ることが出来ていません。でも、やってみないことには分かりません。以前は、やらなくてもなにもかも分かっていました。でも、今はそんな気がしています。それだけでも、私は随分変われたのかもしれません。これから、どれくらいになるかは分かりませんが、ほんのひと時の間、よろしくお願い致します」


『思い出すのは、私がこの子と同じくらいの歳の時、何を考えていたのか、ということだった。きっと、大したことは考えていなかった。幸せじゃない、と思っていた。だから、何でも人のためにやろうと思っていた。風の音が聞こえた。すすきたちが鳴らす音が聞こえた。赤い色を揺らして、彼女が走っていた。雨は降っていないけれど、もうすぐ降りそうで、少し暗かった。湿った草と土の匂いが充満していた。川の勢いはいつもより少し強かった。お母さん、という声が聞こえた。私は自分の名前を確かめるように呟いた。その名前には、静かなようでいて、野性的な力があるような気がした。誰かの為になんて、生きられない。戻ってくるあの子の顔には笑顔があった。急に涙が出そうになって、私にも温かい気持ちがあったのか、と思った。結局は、それも自分のことを考えているだけじゃないのかと思って、甘い匂いがした。抱きつかれて、涙が出て、私は考えてばかりだ、と思った。
川原から上がって、道路に出ると、空が広がっていた。曇った空は、心をやわらかくしてくれそうだった。娘を乗せて、自転車を漕ぎたい気分だった。遠くまで歩いてきたね、というと娘はまっすぐ前を見て頷いた。田んぼと丘の向こうに、窓の多い建物が覗いていた。学校であっても、病院であっても、外から見れば、社会的な静けさを持っていることに変わりはなかった。あんな所に行くのは嫌だし、この子も出来れば行かせたくなかった。でも、今二人で行ける場所があるとしたら、ああいう場所しかない気がした。今漠然と豊かな気持ちになって、温かいような気持ちを持つよりも、お互いに話せることがいっぱいある気がした。虚しい気持ちを持つことが増えたとしても、お互いのことを大事に思う気持ちは研がれる気がした。そろそろ帰る?、と言っても、娘はうなずかなかった。彼女なら、まだ幾らでもやり直せる。やり直すなんて発想は甘いと思うし、実際は無理だと思うけれど、少しは甘い世界を信じようと思った。
大きな道に出ると、様々な形をした自動車が、突然現れたみたいに、幾つも走って、エンジン音を鳴らしていた。しばらく立ち止まって、何処も行かずに、聞くともなく聞き、見るともなく見た。様々と言えば様々で、色とりどりと言えば色とりどりで、雑音と言えば雑音だったが、慣れてくれば、微かなハプニングはあるものの、種類に限りがある気がしてきた。
一台の車が、目の前に止まった。私はずっと娘と手を繋いでいた。娘は、私と同じように、何も話さなかった。それは、私の為でもあるような気がした。
夫が、車から黙って降りてきて、娘に、行こうか、と言った。美羽はうなずいて、私の手を離した。夫が助手席のドアを開け、美羽を中に乗せると、すぐに立ち去ってしまった。それは、納得しあった上での約束だった。なのに、涙が零れた。自分の気持ちに正直になる、という約束以外は、しない方がいいと思った。何故、いつもやってみるまで分からないんだろう。
「お母さん、お父さんと話した方がいいよ」と娘が言った。それは本物の娘だった。まだぎりぎりで、なりふり構わなければ、やり直しがきくと思った。はっきりしないのは嫌いだと思い込んでいたけど、もう少しだけ時間を下さい、と言おうと思った。』