寓話の存在が、現在にもあるというか、自分の中にもあると体験できるということ

小島信夫さんの『寓話』という小説を数年前に、保坂和志さんの自費出版から購入して、少しずつ読んでいるが、読み終えられていない。元々、僕は話の筋を熱心に追う読者ではないが、それにしても、頭に入りきらないが、そもそも入れ込もうとはしてない。


ある所で仮定の話があった後、その仮定をくつがえすような仮定が出てきたと思えば、くつがえしも肯定もしないような仮定とも呼べないような所に着地しそうになったかと思えば、まったく別の仮定が浮かび上がってきて、はっきりしたことも、まったく何の仮定でもないことも混ざり、ずいぶん前に出てきた仮定が現れたり隠れたりし、それが何重にも交差して、その仮定がくつがえされたものか肯定されたものかそのどちらでもないものかということは、もう把握できないというかどうでもよくなっていて、語りかける人の存在と語りを受ける人の存在が光っていて、その光を追いかける時は僕は謙虚な、生命力に溢れた存在となっており、祈るように言葉を受け取り続けている。