言葉の数と愛情

小島信夫さんの『寓話』という小説を読み終わった。あとがきも、小説の一部のようだった。何も理解できていない気がするが、小説の中ではずっと、同じことが言い続けられていたのだ、という読後感があった。実際は、色んな内容が書かれているのだが、同じ一つのことを、一生懸命言い続けている、という気がした。同じことは、一つだけ言っても、数えきれないくらい言っても、内容としては同じことだが、言い続けていること、あらゆる例えでもって言い続けていることは、仏像の大きさが違うことによって、迫力や有難さや神々しさが変わるのに似ている。場合によっては、気持ち悪い、という印象も起こるかもしれないが、生々しいものは、やはり気持ち悪いと言えば気持ち悪いものだ。仮にそれが、愛情だとしても、そうだろう。断片としての正解を知って、正解を悟ったように、理解したように勘違いしてしまうことは、大きな落とし穴で、考えることが苦手なら、もしくは考え続けたいのなら、結論を出すのをやめることだ。目の前には、変化し続ける現実や、人がいる。その度ごとに、違う言葉が必要になる。言葉は断片的なもので、結論や結果そのものであり続けることは、ずっとそうであることは、出来ない。絶えず、その時の言葉は必要で、過去の言葉だって、その時のために、その時の言葉になり得る。書いている時点では、その言葉がどの時点のためのものであるかは、考えられない。作者は、考えすぎた結果かもしれないが、考えることを、半分以上放棄しているが、考えることをやめたわけではない。考えることで何かの結論を出そうとしているわけではない。言葉を尽くし続けるための、圧力を蓄え続けながら、同時に放出しながら、普通に生きようとしている。普通に生きるというのは、瞬間瞬間に生きるということで、ぼんやりしていては、出来ない。ずっと、今に、集中し続けるわけでもなく、ぼんやりし続けているわけでもなく、ただ出来ることをし続けて、投げ出さずにい続けること。変に賢くなってしまったからなくなる忍耐力をなくさずに、遊び心をなくさずに、見守り続けるということ。それを、作者に対して示し続けている読者、読者に示し続けている作者が、対等の立場に立って、与え、受け取り続けている状況を、他の別の読者も、一緒の立場に立って、まさに現在起こっている、今この時の文章として、読んで同じ時間の中にいる。普段、ビデオで録画されたテレビと、録画せずに見ている今放送されているテレビで見るのが、違う感覚があるのと同じように。