響きと怒り

「だらしない手を指してはいけない。とにかく前へ出る」という言葉が,捨てる力,という羽生善治さんの本に書いてありました。だらしない,の響きだけで,気が引き締まるような(強くなれる)気がし,逆に言うと自分がうまく行ってないことの一番大きな理由が,ここにあるような気がしました。


攻撃的な気持ち,は生命力でもあるような気がするので,本当に完全になくなっていいのだろうか,というようなところで,自分の意見がぼやけているような気がします。こんなことを言ってしまっていいのか少し迷いますが,マザーテレサさんの本を幾つか読んで思ったのは,時々結構きついことも言っているし,時々は憤っている,ということでした。いや,もしかしたら,ずっと憤っていたのかもしれません。ただ,それが自分のためであったことが,ほぼ全くないというだけだったのじゃないか,という気がしました。愛しています,ということだって,語弊があるかもしれませんが,憤りぐらいの強い気持ちがないと言えないんじゃないか,という気がします。


黒砂さんの「校正以前」を読んで,心の整理が1歩前に進んだ気がしました。僕は以前,校閲の仕事をしていましたが,正直に言って,僕がやっていたのは単に忙しい仕事だっただけで,校閲の仕事ではなかったのだな,と心がすとんと落ち着いた気がしました。ただ,なんとか問題にならないように,時々は本当に勘だけで,ざっと見て,ざざざざざっと無理やりポイントだけを押さえて(この漢字であってますか?),かけ抜けるような感じで,何とかごまかしきっていたような気がします。最終的にはごまかしきれなくなって,これを続けることは無理だと思ってしまいました。(校閲ありがとうございました。先崎不在ですが−はうれしかったです。これは明らかに校正ではなく校閲ですよね。)


今は正直,僕の中の左脳を使うような細かい部分に目を向ける回路が壊れてしまっていて,しばらくは使用中止になっている感じですが,落ち着いたら,またちゃんと細かい部分にも気を払っていきたいと思います。


こういう文章をここに書くという部分でのだらしなさをどうするかについては,もっと迷っています。