ほぼ同じを忘れる

あしたは3月のライオンの発売日なので,できれば限定版を買いたいと思う。最近はニコニコ生放送で将棋を長時間見れるということもあり,ついつい見てしまう。さすがに15時間とか全部は見れないけど,といいながら,BGMにしたりして,一応は全部見たり聞いたりしてしまう。男性も女性も,棋士の人の話は聞いていると頭がすっきりしてくる気がして,何度も聞いたりしている。将棋も囲碁も数学的かもしれないけど,どちらかといえばイメージでいうと,将棋は文系で囲碁は理系だと思う。駒に字が書いてあるからとか,和服だとか,囲碁は日本だけじゃないイメージが強いとかスーツを着ているとか,椅子に座っているとか,いろいろある。


コンピューターが将棋は随分強くなってしまって,いろいろ考えさせられた。考えるという部分で人が限定的とはいえ,コンピューターに負けるというのは,相当にショックなことだと思う。いろいろ考えて,解決にはなってないかもしれないけど思うことは,コンピューターの性能が人を超えることがあっても,人と同じ感覚を再現をすることはできない(だろう)ということだった。声も文字化する能力においても,九十何%の精度でできてしまうみたいだけど,100%ではない。ほぼ同じということと,同じということは,全く違う。幾らiPhoneの画質がきれいであったとしても,それも何かとほぼ同じということで,ほぼ同じが同じであると錯覚させようとしてそれが技術でそれはすごいかもしれないけど,本物を忘れてしまうと人生なんてすごい薄っぺらいと思ってしまうような気がするというか,すっかり毒されて僕も結構そう思っていて,少しずつ思い出している最中です。


ほぼ同じと本物の人の感覚は全然違う。説明するのは難しいし,説明することは数値化すること,つまりほぼ同じことを説明することになってしまうので,もう説明になってないようなことを言うしかないようなことになって,延々と引き延ばすことになるのは,円周率を計算しつづけている間だけ円周率を計算できますということができるということがなんとかできるというようなことで,でも円を思い浮かべたら,本当の円を思い浮かべることなんて一瞬でできるというようなことを昔数学の先生が言っていたような,直線も現実には存在しないとか,そういう意味では数字のことといったって,コンピューターがなんでも計算できるわけでもないので,数値化云々という言い方もまだ僕も毒されていて,でも計算しつづけるというのは健気な気もして,そこはできない,ということにおいて,人間的な気がします。人間的と見えるのは,それは幻かもしれませんが,でもそれは人の本物の幻です。そう思えないとしたら,言葉だって記号でしかないと考えてます,ということになる気がします。