ときには明晰な巫女さん(耳は凝らさず,本当は目も凝らさず)

きょう聞いたのは投資の話。


もめるのはお金が大きく動くところや命にかかわるところで,医療,建築,相続,投資,などなど。


聞いていると,人ともめるのは心底嫌だという気持ちになる。


ときどき昭和から続いている話もあって,人の気持ちとはこんなにも激しいものなのかと,恐ろしいと思いながらも,すごいという気持ちも同時にあった。


声というのは生のものなのに,文字に変えるなんて,そんなことは可能なのだろうかというような,ちょっと面倒くさいこともたまに思う。


細分化して,凝視するようにして聞こうとしても,意外に聞こえなかった。流れの中心にある芯のようなものに沿ってなんとなく聞くのが,一番ちゃんと聞き取る方法だということはなんとなくわかってきた。そういうところは,僕の今までの感覚からしたら,見ることとは大きく違った。


「純愛というものがもし存在するならば,そういうものであったと思います。」というような答えをする人がいたり,途中から質問ではなくなってきて,ひたすら答える人を励ますようなことをを言い,答えがただ,はい,はいというかみしめるような言葉になったりすることも,ときどきある。ときには判断を下す人は,巫女のようになったりするときもある。それはとても意外なことだった。


犯罪を犯した人に,自分を重ねることがよくある。僕にもそういう部分があると思い,心中おだやかではないことがよくある。僕はただ聞くだけで,裁く人ではないから,がんばってほしいと思う,のもちょっと間違っているかもしれないけど,ただ言葉を追うだけでいいのだし,感情移入したら仕事としても僕としてもろくなことははないけれど,がんばってほしいと思い,がんばるという言葉はここ十数年好きじゃなかったけれど,最近穏やかになってきて,少しいいかなと思うようになってきた。