収まりのつかないもの

きのうきょうと、前の職場の人たちのことを思い出していた。
やっぱり、僕に問題がいろいろとあったな、と思った。
いきなり会社に行って、土下座して大声で謝りたい人が何人かいる、と思うと、涙が出てきた。実際に想像上では謝ったけれど、実際に実行する勇気は、とてもない。許してもらえるとは限らないし、代償として何ができるかと言われたとしても、謝る以上のことは正直できませんというしかない。でも、ふいに虫の知らせで、勝手だけど、皆が元気な様子で笑っているのが見えた気がした。


雨を数える(小説)は、とても書き終わりそうにないし、ほぼほったらかしになっているけれど、でもこれがなかったらこんなふうに書く場所もなくなっていただろうから、個人的にはとても助かった。
清二くんは、芸術をやろうとするけど、記録をすることのほうが自分に向いてるんじゃないか、と思うことになる。公夫さんは、山をおりることになる。それで、引き継ぎのようなものを清二くんにすることになる。


敵わない、と思うことから始まる気がする。


荘子を少し読んで、言った途端、書いた途端に本当じゃなくなる、うそになる、というようなことを言っていた箇所があった。

僕もちゃんと伝えるように書いたり話したりしたいけど、だんだんとうなぎ流になってきてしまった。うそを言えば、うまくいけば本当のことが言えるかもしれない、というのは随分むちゃなような気もするけど、ほんの少しはそれも本当のことだと思う。


昔は自分の性格の悪いところを見つけても、あんまり悪いとは思わなかった。小説を読んでいると、少し性格の悪さをおもしろいと思う気持ちが戻ってきた。性格の悪さは、ファンタジーになることもあるというか、個性というか、あくがないと、物語なんて起きないんじゃないかとか思うけど、そんなこと何をいまさら、ということをみんな思ってるんだろうか。ファンタジーが許されない時代、というのは、性格が悪いことが許されない、個性があることが許されない、機械的な意味で無駄があることが許されない時代、ということだろうか。


だろうか、なんてときどき言ってみたい。


とにかく、仕事のできる人間なんて、向かないことはやめたい。仕事をする前は人一倍だらしがなかったのに、厳格なシャープな品のあるおしゃれな性格のいい(?)人間になろうとするのはやめよう。