また手をつないで、山道を歩いていった。時々すれ違う人は、「おはようございます」と笑顔であいさつをしてくれた。最初の内は、あいさつをする人もいれば、しない人もいるんだと思い、あいさつをするのをためらっていたが、皆あいさつをしてくれたし、公夫さんもあいさつを返していたから、僕も途中からあいさつをするようになった。
 その後、時々あいさつを返してくれない人もいたけれど、あいさつをすることが癖になり、人とすれ違う時反射的にあいさつが口から出てくるようになった。
 林の中を抜けると、舗装された道に出て、視界が開けた。その道は少し上り坂になって先へと続いて、左手には丘が見えていて、丘の向こうには木で出来た城のような、アスレチックの上部が覗いていた。そこに人は誰もいないと思っていたら、小さいけれど、音域が高く、澄んだ通る笑い声が聞こえて、日に焼けた目の細い女の子の笑った顔と、真っ黒な髪が見えた。下にいる友人を見て、何か話しているようだった。その周囲には、その二人しかいないらしく、鳥の声や虫の声、遠く遠くの方から聞こえてくる飛行機の音以外はなく澄んだ静けさで、その二人が話している声は小さく、何を言っているかは分からなかったけれど、僕の所まで途中でかき消されずにやってきた。
 僕はその女の子の姿を見ながら歩いていて、女の子の姿が見えなくなってからも、アスレチックの方をたまに見ながら歩いていたけれど、公夫さんから離れることなく、一定の速さで歩き続けていた。
「あそこが診療所」と公夫さんは前を向いたまま、先に見える白い外壁の建物を指さして言った。僕は頷いたけれど、公夫さんが僕を見ていたわけではなかった。
 入り口近くまで来ると、玄関の左隣の曇り窓の向こうに、赤い花が飾ってあるのが見えた。窓はほんの少しだけ開いていて、外の新鮮な空気を入れているという様子だった。公夫さんは僕の手を離して、戸の取っ手を引っ張って、戸の半分を開け、僕に中へ入るよう手振りをした。中へ入って、ついてきてね、と公夫さんが僕を見下ろしていい、先に歩き出した。目の前の通路の左側から桃色のワンピースの服を着た女性が歩いてきて、公夫さんの顔を見て、「おはようございます」と言い、公夫さんもあいさつを返した。
「真澄くんの部屋は何処か分かる?」
 女性は公夫さんに対して体を半身にして、自分の来た道を振り返り、「一番奥の左の部屋です」と言った。
「ありがとう」と公夫さんが言って、女性は会釈して、二人はすれ違った。診療所の中も白い壁ばかりで、廊下の両方には等間隔にドアがあった。中に人がいるかいないか分からないくらい、どの部屋も静かで、自分らの足音がよく聞こえた。廊下の突き当たりの窓から日の光が入ってきていて、奥の部屋の手前だけが明るく、他の場所には朝の涼しい薄暗さが残っていた。光の方へ歩いていって、心なしか触れる空気が徐々に暖かくなっていくように感じていて、光に当たる所、ドアの前に立った時にまた朝の涼しさを改めて感じた。
「入るよ」と公夫さんが中に向かって呼び掛けると、はい、と快活な声が返ってきた。その横開きのドアは静かに滑って開いた。
 部屋の右奥のベッドに、体を起こしてこちらを見ている男の子がいた。顔の真ん中に、付け鼻のように白いガーゼが貼られていた。
「気分はどう?」と言いながら、彼の方に歩いていった。
「ほとんど大丈夫です……まだちょっとだけぼぉーとします」
「今日はゆっくり休んで。もうすぐ麻酔も抜けるでしょう」
 ベッドの傍には、赤と橙の花が飾られていた。公夫さんと僕はそこに2つあった丸椅子に座った。僕が顔を上げないでいたら、
「今日からここに居ることになった清二くん。仲良くしてね」
と公夫さんが真澄くんに言った。
「よろしく」と真澄くんが僕を見て笑って言い、僕もよろしくと言った。
「なんで転んだの? 走ってたの?」
「……靴下で滑るから、滑るように走って、そのまま廊下の角をそんな風に曲がろうとして転びました」
「一緒に誰かいた?」
「最初は吉井くんも一緒にやってたけど、途中からは僕一人でした」
「そう……今後はそういう危ないことはしないようにね」
「はい」と初めて俯き加減になって、真澄くんは言った。その時初めて、ちゃんと彼の顔を見ることが出来た。ガーゼで顔の3分の1を覆われていたけれど、くっきりとした輪郭を見て、男前だと思った。
 公夫さんと僕が立ち上がった時、
「明日にでも、また僕の部屋においでよ」と真澄くんが言い、僕は分からないまま頷いた。少しだけ、母親のことを思い出した。