浮かぶ瀬もあれ

 何に、ということを抜きにして、誰だって信仰心を持っている。信仰心というのは、何かを丸呑みにして受け入れること。根拠のないことを信じるということ。信仰をもつ、ということは、自分の丸呑みにするものを決めること。無意識だけではなく、意識的に丸呑みすること。丸呑みにするということは、ある『永遠』を信じること。分からないので、想像する度に、変化し続けること。分からないので、そんなことばっかり考えていても、何も出来ない。
 恋慕すること、渇仰すること。そのような気持ちを抱くことが出来たら、その姿を感じることが出来る、見ることが出来る。このように書く時に、敬語を使用することは、ためらわれる。不遜ではない、と思う。落ち着いていて、尚且つ感情的に、それが豊か、という状態を、うまく想像できたらいいけれど……。
 仕事をしていない時、一人でいる時、何をするか。文章を書く、ということにしても、どのように書くか。どこへ、どういうつもりで、どんな時に、何を。法華経を弘めるとしたって、それは直接やりたいことではない。それを読むことによって、出来た心の状態、それを使って、人に接したい、文章を書きたい、というのが希いだ。実際問題、法華経を弘めることは、それを読むことを勧める、ということくらいしか出来ない。何故か最近、心臓が、嘘発見器そのもののように、痛んだり、温かくなったりする。法華経と書くと、胸が痛むことが多い。罪悪感や緊張感が襲ってくるからだろう。負い目は幾つかあるのだが、どうしうようも出来ないでいる。
 どちらかと言えば、どちらかじゃないな、やっぱり、小説が本分だという気がする。小説は優しい。書くこと、読むことは、あるいは厳しかったとしても、それ自体の持っているフィールドは、温かく広い。こういう僕のわくわくする感じが失われたのは、様々な要因がある。様々なストレス、試練がある。伊達公子さんの復帰は、心に響く。見ていて、清い気分になる。自分の清い気持ちも思い出す。テニスは、本当に好きだった。今でも愛しているかもしれない。ただ、僕には無理だった。確かに、無茶だった。核心に迫りたいようでいて、迫りたくないのかもしれない。小説を書きたいようでいて、書きたくないのかもしれない。本当にしたいことは、何もしないこと。誰にも会いたくないし、何も言いたくないし、何もしたくない。体を動かすことは、割に好きだ。編集することも、校正すること、推敲することも、割に好きだ。支離滅裂に。
 本当は、支離滅裂の方が自然なのだ。それは、筋を通すこととも、矛盾しない。
 心のままに、自然に話してみたいし、書いてみたい、このように。何もしたくない、というのを前提すれば、落ち着いていられるだろう。何も時間を無駄にしているわけではない。一人、部屋にいることは。手持ち無沙汰で、欲求不満なら、体を動かしてから、眠ればいい。心に余裕があり、何か書くことが出来るなら、何か書いてみればいい。本名を出してもいいかもしれない。昔の僕を知る人が、僕を見つけられるように。それは重要なことではなく、小説ではなく、日記を書きたいんだろう、ということだ。こんなに無理のないことはないからだ。○○日記、というようなものを創りたいわけではない。ありのまま、自らの筆にまかせて、ただ書くことを望む。今やっている小説だって、ほとんどそのようなものだ。これから何か事件が起きるとしたら、現実の僕にも起こり得るような出来事だろう。そして、そのように書けば、きっとうまく書けるだろう。書く時の基準は、自分が満足出来るかどうかだ。評価は気にしない。自分の好み、評価だけを頼りに。現実、僕がぶつかるように、小説も壁にぶつかるだろう。その度に、少しずつ、軌道修正すればいい。



はじめて読む法華経―白い睡蓮はいかに咲くか

はじめて読む法華経―白い睡蓮はいかに咲くか