全く分からないということ

 実際にあったことではない文章を書けそうな雰囲気を持っているな、と思えるときは、口からはうまく言葉が出てこない。その逆のときもある。あちらを立てればこちらが立たず、捨てる神あれば拾う神あり、という感じがする。
 目を瞑ったときに、ごちゃごちゃとして暗いときではなく、きれいな真っ暗闇のときは、とてもいい。透き通った闇は、光っている。眩しすぎて、何も見えない、ような……
 印象を、正しく受けられるようになれば、印象で決めたっていい。政治家が政治のことを話さなかったとしても、その印象で選べばいい。自分が政治のことを分からなくても、印象で選べばいい。そう思ったら、間違うのは仕方ないとして、選挙に参加してみてもいいかもしれない、と思えた。

 人の心なんて分かるはずはない、と唱えると、ほっとする時もある。河合隼雄さんの本に書いてあった。分かった気になっている、ということもあるし、少しだけ分かるくらいだったら、少しも分からない方が、分かることに近づくこともある、ということじゃないか。こうやっておけば無難、ということはなくて、自分を懸けないとだめ、ということも言っているような気がする。確固とした自分があれば、自分を捨てることが出来る、という話は、よく分かる気がする。これまで、確固とした自分が出来る前に、捨てよう捨てようとしてきたけど、いまいち覚悟が足りないのは、そういうことじゃないか、という気がする。でも、少しずつ、確固となったり、捨てられたり、出来ていっているような気もする。

 彼女も、そろそろ話すことがなくなってきたようで、困っているようだった。僕から、何かを話し出そう、とはこれまでしなかったし出来なかったけれど、そういうことを、もうした方がいいのかもしれない。何を、と考えてみて、これまでも考えてきたようで何も考えていなかった、と分かった。