どうして黙るの?というおそろしい言葉について

 自分が話せなくなるときはどういうときだろう、ということを久しぶりに少し考えた。何かを話した方がいい、ということは分かるのに、全く言葉が出てこないときがある。そういうとき、僕は、何かを話したとしても、その言葉が全て跳ね返される、全く響かない、と感じていることが多い、と思った。それは僕にとっても、相手にとっても、何にもプラスにならない、と感じてしまっている。なので、全く関係のない、どうでもいい話をしよう、と考えることもあるが、そういう所は無意識の僕は頑なで、意識上の僕のいうことを全然きいてくれない。自分を守っている、といわれればそれまでだが、僕は、僕にとっても頑なで、いうことをきかせるのが難しく、なんて僕はめんどくさいんだ、と僕は僕自身に疲れることも、しばしばある。場面緘黙症、という言葉もあることはあるけれど、これは主に子供に対して使われる言葉で、幼稚園児の頃の自分になら使ってあげてもいいと思うけれど、今の僕にはその言葉を使っていい、とは思えない。使うことで少しでも気持ちが楽になるなら使うのもいいと思えるけれど、本当に悩んでいる人に申し訳ないから、僕は使えない、という気がする。
 話せなくなる場面は、年齢を重ねるごとに、減っていっている。僕が黙ることを許してくれる人たちのお陰で、少しづつ解けてきたのだと思う。好循環で、許してくれない場面や人の前でも、少しは話せるようになったのだと思う。完全に治ったわけではないし、話すのがうまいわけでは、ぜんぜんないけれど。完全に治ったら、完全な人間になる、というわけでもないし、どうしても無理な場面からは、せっせと逃げ出します!