煙草という曖昧で本気なもの

煙草の排斥に、違和感を覚えるのは、残業しないことが正しい、ということにも似ているし、健康であることが正しい、というのは、その通りといえばその通りだけれど、もっと大事なこともある、と反発したくなるような気もし、何か、健康至上主義には、自分さえ良ければ、という匂いを感じてしまうというか、日本全体で残業する人がいるなら、もっと範囲を絞って会社の誰かが残業しているなら、その人を励ますためだけに残業したって、ばからしいことではない、とある程度までは思いたい。その人のために時間を使う、というのは、その人に自分の肘を焼いて供養する、というような、仏教の逸話もちょっと思い浮かぶし、そういう供養は、人間的だと思えるように少しなった。形だけでも、そのようにしている内に、それを喜ばれているうちに、それが本当になってきた。ご近所づきあいとか、正しい依存の仕方とか、そのようなことに、少しは近付いていっているのなら、阿修羅の正義からも離れ、離れて、健全な生き方に近付けているのだったらいいなと思う。校正をするのも仕事なら、文章を書くのも仕事なら、遊びは何処へいったのか。もっと君は遊んだほうがいい、と最近も何処かから降って聞こえてきたし、直接もよく言われてきたが、昔の僕は遊びすぎていた。間がないというのは、人間的ではないし、癇癪持ちが増えてきた、と夕波帖にも書いてあったし、煙草のマナーが悪いのにはむっとくるし、あの匂いが嫌いで煙草を嫌っているなら自然だと思う。捨て身になるには、追い詰められないといけないし、ハングリー精神がないといけない、というけれど、そういう尖ったことではなくて、捨て身にもなれるけれど、捨て鉢にはならないし、適度に休むし、疲れたとか言うし、物忘れもするし、アンフェアなこともしたくなる。
先入観で、錦織圭選手は、大したことない気がしていたけれど、実際に動く所を見て、好きになったので(フォアハンドのジャックナイフ!)、また松岡修三伊達公子時代のように、テニスの放送がもうちょっと増えたら嬉しいと思う。あの時代はサンプラスがいて、アガシがいて、チャンがいて、ベッカーがいて、グラフがいて、サンチェスがいて、ヒンギスもいたかな。ダイエットのために、また始めようかとも少し思う。グラフのような、偏ったスタイルは、肩に力を入れて応援しやすい。