沈黙、書かれる言葉、語られる言葉

書くことに対する興味を失いかけた大きな理由の一つは、言葉の本質は語られる言葉である、という考え方に、大きく傾いていたからだった。語られる言葉は、聞く人が能動的に聞こうと、受動的に聞こうと、問答無用に響く。伝える力、変容させる力がある。人に対しても、物に対しても。もちろん能動的に聞いている人により響くけれど、そうでない人(物)にも伝わるものがある。語られている内容以上に、語っている人の意思(力)が伝わる。表情、声、手振り身振り、という物理的な身体性だけじゃない身体性も、語られる言葉には含まれている、と僕も感じている。書かれる言葉には、ほとんど身体性がない。それは危険なことで、極端な方向に導くことがある。
僕自身、般若心経を(本で読み、)暗唱できる時期があり、その時は、とても虚しい気分になった。まだ準備が出来ていない人間は、空になろうとすると、虚しくなる、無になってしまう。仮定に留まるには、経験が足りない、余裕が足りない、忍耐力が足りない、と思う。どちらにしても(生が)無意味なら、悲しむより、楽しんだらいいじゃないか、というようなことを言っている有名な海外の仏教の高僧の人がいるけれど、どちらにしても無意味なら、から、楽しんだらいいじゃないか、の間に大勢の人はいるのだ、そんなことは分かっている、と腹だたしい気分になった。(どちらにしても無意味なら、悲しんでもいいじゃないか、でも悲しいより楽しい方がいいでしょう、いいというのはどういう意味ですか、という触れ合わない言い合いが背後にある)無意味が無ではなく、空である、から、楽しむに繋がる、ということは、説明不可能である気がするけれど、そこを話さないと、何の意味もない、と思ったけど、ある程度まで考えを進めるには、そのように言ってくれる人が、必要だという気もする。
身体性は、言い換えれば、人間性、と言える。限りがあるという意味においても、限りがないという意味においても。書かれる言葉に身体性がない、ということにも、同じことが言える。限りがないという意味においても、限りがあるという意味においても、身体性がない。身体性は、人や物を裏切る方向には、歯止めがきき、その反対の方向には行き止まりがなく、身体性がなければ、人や物を裏切る方向にも進むことが出来るけれど、人や物(自身が意識的にしろ無意識的にしろ能動的に受け取ろうとしない限り)に伝えることができない、という感じがする。それが本当だとすると、書く言葉は、探求することにおいては、語られる言葉より機能する。疑いを持つこと、興味を持つことにおいては。自分が何者か、生きることはどういうことか、という興味や疑いではなくても、この場所で人として探求するかぎり、最終的には、身体性(地球の人、物、とそれに関係する物理的ではないもの)に行き着く、という気がする。身体性を発見することが出来れば、出来なくてもそのことに興味を持ち続けていれば、語る力を得ることが出来る、それに語る、というのは、生きる、ということ、というのは飛躍しすぎだけれど、そう思う。
けれど、たとえばある種の小説家は、語ることが出来るようになるために書いているのではない。よりよく生きられるために書いているではない。書くことそのものが語ることだとしてやっている。読む人が能動的に読むことが必要だとしても、その人(書いた本人も含む)においては書かれる言葉は、語られる言葉になる。それは、危険な言葉になりうる。語られる言葉以上に、危険な力を持つ可能性がある。書かれる言葉では、方向を定めるのが難しい(未熟な語り(ほとんど全ての人の語り)も同様だけれど)。極端に、どの方向に進んでしまうかは、分からない。読む時によって、書かれたものが、全く別のものとして受け取られることがある。方向が定まっていない、ということは、空の状況と似ているんじゃないか、と想像する。あらゆる可能性を感じて、読むこと、読むという受ける行為を能動的に行うこと、あらゆる方向に開かれていること、空は、静寂でもあるけれど、よく見れば、その静寂は、微細で規則正しい(があらゆる方向と模様があるため不規則でもある)振動で満たされているんじゃないか、と想像する。

言葉の幹は沈黙である、という考え方と、言葉の本質は語られる言葉である、は反転しているように思えるけれど、沈黙というのは書かれた言葉ではない、と考えると、同じことを言っているように思える。書かれる言葉に導かれようとすると、沈黙である、から始まる。言葉そのものに引かれると、書かれる言葉に導かれる。