以前、呑み込んだものは何か

整理すること、明晰であること、図式化すること、記号化することは、何かの係数を考慮しないようにすること。考慮する範囲を決めること、考慮しないことを決めた上で、考えを進めること。(数学の問題でよくあるような、『ただし、空気抵抗はないものとする』というようなもの)
現実に対して、そのような暴力を振るうことは、日常、私たちが生きる時に、私たち自身が行っている。動物が飽きずに同じ遊びをするのは、知能が低いからではなく、知能が太く強いからで、リアリティを感じ続けることが出来るから。私たちがそのような暴力を振るうとき、知能が細く切り詰められている。(たとえば、近しい人の考えていることが、ある行動や言動を見て、分かった気になること)
小説が果てしないのは、何かを考慮しないようにして考える、ということをしないためで、読む人に、書く人に、考え続けること、リアリティを感じ続けることを促す。
書いた人は、引き続き考え続けるし、読む人は、そのことに関連して考え始める。結局、結論、と呼べるものは出ない。出ないが、出ないとも分からない。結論が出ない、という結論も出ない。『語りえないということは、語りえないという行為の持続の中にしかない』。計算し続けられる円周率は、段々と正確さを増していくけれど、増していく幅は、段々と小さくなっていく。現実の世界に感じる新鮮味も、同様に減じていく、という風になってしまうのは、世界が固定されたものと感じるからで、円周率と違い、世界は変化し続けている。
私もふくめて、世界、または、人生が段々と固定されていくように感じる人は、生きることにリアリティを感じることが、段々と出来なくなっていく。世界、人生、どちらかが固定されていないと感じられれば、手掛かりはあるはず。リアリティを感じるというのは、現実に、ひっかかりを感じることで、小説の中のリアリティを感じることで、現実の感じ方を知る、という不器用な方法がある。読む、ということだけでも、ひっかかりがある。ひっかかりとは、こちらが能動的になる何かがあるということ。このように言うとき、小説の力は何処にあるか、といえば、描写、ということになる。描写するということは、書き手や焦点人物が対象に対して能動的になる何かがあるということで、どれくらい、どのように能動的になっている(興味を持っている、感じている)かが露になるし、描写している時点で、能動的になっているし、読む方は、書き手や焦点人物が能動的になっている温度を感じながら、手をとって導かれるように、その空間を自分自身で描いている。(盲人と手を合わせて筆を持ち、テレビに映った大聖堂の絵を描くように)
受け入れることと、受け身になることは違う。むしろ、受け入れることが出来ない人が自分を守るために受け身になる。受け入れることが出来れば、何も怖れずに、自由に能動的になる。(耳が痛い)

(自分が負の感情を抱くことを受け入れること。その状況を避けたとしても、その状況が訪れたときに負の感情を抱くという性質は、向き合わない限り、いつまでも残る。
途中で一人称から三人称に変化する小説はすでにある。人生も、一人称に囚われる必要はない。)

前回、前々回と書いていること、このように書くことは、整理することだけれど、整理されていないものに触れて、感じて考えた後のメモであるけれど、訳の分からないことも書いているけれど、同じようなことを考えている人が読めば、リアリティは、少し残っていると感じられるかもしれないし、少なくとも自分自身にとっては、経験を記憶しているので、忘れていても思い出すので、、、やっぱりメモなんだろうと思う。

整理されていないものに触れて、そのことを自分の中に残しておく一番いい方法は、元も子もないが、丸暗記しておくこと! 記憶しているものは人生に、読むように順番にではなく、同時に現れるから、そのことを全体として感じられる。丸暗記することには、負荷がある。能動的に、時には髪の毛をぐちゃぐちゃにしながら、時には静かに何度も目で追いながら、何度も読みながら、聞きながら、見ながら、触れながら、嗅ぎながら、味わいながら、考えながら、丸呑みにする。丸呑みにしたら、順序が消える。順序が消えたら、同時に、瞬時に、自分自身が理解しているものもしていないものもお構いなしに、全体が現れる。