一つくらいは、理由がなくてもいい

心にとって身近なことを扱う。それは仮定の中でも、信じられる方の仮定で、それを使って、他の仮定が存在するかしないか、成り立つか成り立たないかを、考えたり、見ようとする。それで、確固とした答えは見つからなかったとしても、信じられなかった、実感しにくかった仮定が、以前より身近になる。仮定の姿、自分との距離に変化が起こる。書き手の中にある仮定との関係の変化、読む人に起こるある仮定(それは書く人が扱った仮定と同じとは限らないし、同じとしても、各人の経験は同じではないから、全く同じではない)との関係の変化は異なる。それぞれの人の中に存在する仮定の姿、種類は違う。
このようなことを考えたり、読んだりして起こる衝動は、書きたい衝動というよりも、読みたい衝動に近い。

読む行為と書く行為では、読む行為の方が、まとまりある個人として創造する量が多い。書く行為は、行為でありながらも受動的で、浮かび上がらせる、拾い上げる、抽出する行為で、信じることで浮かび上がる思い。読みたい動機だけでは、書くことは出来ない。もっと個人がないという意味では受動的になる必要があるし、書くという具体的で身近な行為であるという意味では、能動的になる必要がある。個人の熱を出さないようにかつ能動的になることで、初めて浮かび上がる個人(より解体されたもの、内部の関係たちが緩やかになった状態のもの)や、世界もある。それを目の当たりにしたい、自分がその仲介人になりたいということ。
普段意識しているまとまっている個人のまま読む行為の中にも、生成されるものがあるけれど、より個人を脱ぐことが出来るのは、書く行為であるように思えるけれど、よりまとまっている方向から、より解体された方向から、という出発地点が違うだけで、ほとんど同じものにすることが本当のやり方だと思う。読む方は読むものを選択し、書く方は書くものを選択する。書くのを中断して読むこともあれば、読むのを中断して書くこともある。

正体の見えない衝動に従うこと、それは生きる意味とほとんど同じで、それを実感し続けている。それは積み重なるようでもあり、瞬間瞬間だけのことのようでもある。仮定の姿が明確になっていく様子は積み重なるようでもあり、変化をする様子は積み重なりとは無縁のようにも見え、変化した後の仮定は最初からそういう姿をしていたという風で、それは意識していないと夢のように忘れて正体の見えない確固とした何かに解けてしまう。