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 エスカレーターのチューブの中に入ると、駆動音が反響して聞こえた。チューブの天井は近く、居心地が悪く、戻りたい、と思ったけれど、引き返すには遅い、と思った。急いで上り切るというのも、恐いと思った。途中で疲れて動けなくなると、どうしようもなくなる気がした。後ろ向きに段の上に座っていたら、少し落ち着いた。
 駆動音が響ききらずに抜けるようになって、振り返ると、出口が見えた。
 エスカレーターから降りると、元生さんの言った通り、左奥に今朝いた大きな瓦葺きの建物が見えた。すぐ右手は崖になっていて、木々に覆われていたけれど、まっすぐ先にはずっと平地が続いていて、遠くには密集した家々が見え、奥の方からは左手にも敷地が広がっているようだった。
 今朝いた建物の前に着いて、突然に、公夫さんに会うのが怖くなった。
 立ち止まっていると、後ろで女の子の声が聞こえ、振り返ると、アスレチックの上にいた女の子がすぐそこにいた。
「どこ行ってたの? 公夫さんが探してたよ」
 とショートヘアの女の子は明るい顔で言った。彼女の後ろに、前髪がきれいに揃っている女の子がいた。後ろの女の子は、静かにしっかりとした目でこちらを見ていた。
 女の子二人に添われて、建物の中に入り、二人は玄関で待っていて、僕は公夫さんの部屋に行った。
「あんまり勝手にいなくならないでね。この山には、危険な所もあるんだからね」
 と、表情は変わらなかったけれど、今までで一番はっきりした声で、公夫さんは言った。
「これから集まりがあるので、一緒に行きましょう」
 と言って、公夫さんは僕の手を取って、部屋を出た。女の子二人は小さい声で喋り合っていて、少し笑っていた。
「千佳ちゃんと奈々ちゃんも一緒に行こうか」
 はい、と二人は返事をして、外に出てからは、公夫さんと僕の後ろをついて歩いていた。
 公夫さんは、エスカレーターの方ではなく、階段の方へ向かった。
「名前は何ていうの?」
 千佳ちゃんと呼ばれたショートヘアの女の子が、まっすぐこちらを見ていた。奈々ちゃんと呼ばれた女の子は、千佳ちゃんに寄り添うように、ほんの少し、後ろを歩いていて、こちらを見ていた。
 何も言えずに歩いているうちに、階段の少し手前まで来ていた。
「清二くん、君と二人は同い年だったと思うよ」と公夫さんが言った。
 石の階段は馴れ親しんだもののように見えた。足元の階段の一段一段を見ながら降りていった。
「恥ずかしがらなくてもいいんだよ」
 千佳ちゃんは、笑顔で右隣りにいて、その隣に、奈々ちゃんがいて、前を向いていて表情は見えなかった。千佳ちゃんとは目が合ったので、つられて頷いた。どういう表情をしたかは分からなかったけれど、開いた気分になった。
 階段の下の道を、人々が左に向かって歩いていた。その人の列は、混雑というほどではなかったけれど、ある程度の人の固まりがずっと、左へ向かって流れ続けていた。土を擦る足音の波が、階段を降りていくと、段々と聞こえるようになっていった。流れ続けている中には、昼食の時に見た白い帽子を被った人達や、建物の前ですれ違った黒い鍔の広い帽子を被った、真っ黒な衣装を着た人達の固まりもあった。
 隣にいた女の子二人は、また後ろにいて、階段が終わる頃には、ほとんど喋らなくなった。頑丈で歩きやすそうな革の靴を履いている人達の固まりの中に混じって、土の上を歩いていった。人々の固まりの中に入ると、人々の集まりの中にいると感じられるようになった。それぞれが別々の人で、偶然に同じ方向に歩いていると思った。信号が変わった後の交差点のようだった。母は目的地を決めずに僕の手を持って、街を歩いていた。僕は一人で歩いているよりも頼りない、自由な気持ちになった。父は目的地を僕に言い、車の助手席に乗せた。僕は眠たくなったり、わくわくしたりした。公夫さんの隣は、そのどちらとも違った。父の母の間くらいのような、自分で行く場所を決めたくなるような感じだった。
「公夫さん」
「何、千佳ちゃん」
「今日は何人いるんですか?」
 歩いている人達の話し声は、ほとんど聞こえてこなかった。千佳ちゃんの声は、はっきりしていて、周囲に響いていた。
「今日は五人います」
 公夫さんの声は、周囲には届かず、僕と奈々ちゃんまでの間で収まったようだった。
 さっき使ったエスカレーターは下りに変わっていて、続々と人が降りてきて、流れに合流していった。木々の間の道を抜けていくと、左右に広がる大きな道に出た。左に下り坂になっていて、向こうには街の姿が見えた。人の流れは反対の、右側へ向かっていた。規則正しい列は解けて、勢いも密度も緩くなり、上り坂になったこともあって、歩く速さも遅くなった。
 角度の鈍い大きな広い屋根をもった、白い壁の建物が、道路の右側に見えた。建物の正面には、人十人くらいが横並びになれるくらいの幅の階段があった。その敷地内には、細かい砂利が敷き詰めてあって、大勢の人がその上を歩いて、絶え間なく火花のような音が鳴り続けていた。
 階段を上がると、音の波から逃れて、靴の音だけになった。階段を上り切ってすぐに、大きな横開きの扉を開放した建物の入り口があり、皆靴は脱いで手に持って、中に入っていった。中は整列した人達で埋まっていて、何百人もいるように見えた。高い高い天井には照明が等間隔に並んでいて、光が灯っていた。床は、ワックス掛けされた板の間だった。建物の端を伝うように、公夫さんは僕を誘導していった。人々の話し声がずっと響いていた。外よりも建物自体の湿度で、肌寒く感じ、人々の声も風のように感じた。人々の笑顔の前に舞台があり、先頭の人の幾人かは、少し見上げるようにその舞台を見ていた。
 舞台の端に、中に入る入り口があって、公夫さんに連れられて中に入った。後ろを見たら、千佳ちゃんと奈々ちゃんはついて来ていなかった。
 薄暗い小さい部屋の真ん中にテーブルがあり、その上に橙色の光を纏っているランプがあった。右奥には舞台に通じている階段が見えた。テーブルの奥にはホワイトボードがあって、隅の方には消し忘れの名前や線があった。
 テーブルの左側に二十代後半くらいの女性と、僕と同い年くらいの女の子が、右側には白髪の体ががっちりしたおじいさんが座っていた。
「今日が最後になるのは義和さんと私ですから、最初に義和さんで、最後が私にします。二番目からは今日が最初になる美智子さん、美羽ちゃん、清二くんの順にしましょう」と公夫さんは一息に言った。