「暁雲によせて――追悼・井川拓」下窪俊哉(『アフリカ』第11号)


『彼とのつき合いは、その後、短いけれどたいへん深いものになった。けれど、なぜか、くり返し、くり返し思い出されるのは、その朝の情景なのだった。』


読み終わって、最初に思ったことは、あ、終わってしまった、ということだった。短いことが、切ない。切ないことが、短い。ここに書かれていることは、すべて過去のことで、回想する作者も、現在の作者ではないような気がする。少し前の作者だという気がする。この文章は、現在とは切り離されていて、夢のような空間で、停まったままで、ここに出てくる作者も他の人も、現在のその人ではない。言葉にならない、という感じがする。現在から過去をみて、それを言葉にするということはできない、という感じがする。だから、自分も夢のような停まった空間に入って、少し過去から、過去のことを思っている、という感じがする。短いからといって、衝撃が小さいということはない。言葉にできることが少ないからと言って、衝撃が小さいということはない。この短文、と作者自らが言っているこの文章は、ぷつり、と終わる。


僕も、一度だけ、井川さんに会ったことがある。
自分よりも豊かで、荒々しさも、神経質さもある気がした。
僕には、僕よりも全然大丈夫に見えた。
文章を書く、ということについて話した。
前のあわただしい仕事から離れて、落ち着き始めている、というような話を聞いた。
しんどそうに見えたが、体力的なことだけなように見えた。
だから、そのときはたまたましんどくなかったのかもしれない。
つかみたいけど、つかめない、という感じがした。
でもたった一度だけで、なんといっていいかわからない。


作者からメールをもらったとき、誰かが亡くなったのだ、と思った。
僕は何人か想像した。けれど、想像した人とは違った。

仕事中に、黙祷した。今の僕は、そんな生活をしていた。でも、黙祷だけでも出来る日で良かった。





『アフリカ企画』
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