一本の釘(釘が要らなくなるために釘を使う)

もし、仕事をするとしたら休みが年に一日もなくなります、としたら、何をしますか? と聞かれたような気がした。これをしながら、これをしよう、と二つのことを思いながら、6年間やってきたが、片方の比重がどんどん大きくなり、ついには完全にもう片方を飲み込んでしまった。完膚なきまでに飲み込まれたとき、やっと、すっきりとした。飲み込まれた方と、もう一つのことを、また同じように、いわゆる二足のブーツでやろうとしたけれど、少しは変わるかもしれないが、それはまたいずれ同じことになるのではないか、という気がした。余裕をもってやることも大事だけれど、余裕がなくなったとしても全然構わない、むしろ嬉しいくらいのことをやる方が、大事なのではないか、という気がした。日本人を見て、忙しすぎませんか、と言った海外のすごい人をよくみたら、ものすごく沢山のことを、それこそ休みなくやっていた。きっとそういうことではないのか、と思った。



目に見える長所というのは、その裏に隠れた短所があって、それを解消するためにあるので、隠れた短所があるということを示していて、その隠れた短所が治れば、その長所はもう不要になる。最終的に長所が何もなくなって、何もできないのに素晴らしくなれば、一番すごい。目に見える短所そのものはきっと、悪い所ではなく、その目に見える短所に触発されて伸びた長所が、極端に言えば、隠れた短所そのもので、目に見える短所は、その人の隠れた長所そのものなのだ。本当の長所は、伸びたりなんかせず、消えていく。他の本当の短所を治すために、目に見える短所や長所に変身する。
短所を治すために一生懸命になるといっても、治した方がいい短所と、長所の生まれ変わりの短所の見分けは、嘘を一つもつかずに生きるくらい難しい。一つの短所にその両方の側面がある、ということだってあるから、決めつけて、切り落としたり、ふたをしたりしても解決しない。その短所が緩和する、ということが目に見える一番最良の形かもしれないから。長所も、何もない所から生まれるわけでもなく、本当の長所そのもので出来ていて、隠れた短所に呼ばれて、形を作っている。



自分に刺さっている一本の大きな釘が、年々はっきりと見えてきて、それから最近目を逸らし続けていることも、はっきりしてきた。他の釘に目をやることでその大きな釘から目を逸らしていたけれど、他の釘を抜いている内に、その分、その大きな釘がよく見えてきて、あとそれ一本さえ抜ければ、他の釘は極端に言えば、もう一本も、抜けなくてもいいという気持ちになってきた。


私の傷そのものが私、という考え方を学生時代に聞いて、その時は気持ちのいい考え方ではないと思ったけれど、私の傷が私の生きる道標、という意味で、道標は、傷に辿り着いて、傷に留まることなく、傷を治すことに懸命になって、そこから立ち去って、その道標(傷)をお役御免にしたら、その道標があった付近は、遮るものが何もなくなって自由(短所にもなれる隠れた長所)に動けるようになって、その自由な気持ちで見てみたら、また新しく不自由に固まった気持ち(目に見える長所や短所が必要な隠れた短所)を、見つけることになるだろう。


でも、本当に何も出来ることがない、ということにはならない。本当に何でも出来る、ということにならない(負け惜しみでもあるけれど、なれない、のではない)のと同じくらいに。