謙虚さと非生産性

今週、童話の公募の賞に応募した。童話を書くのは初めてだった。家にいると、他のことに気を取られそうだったから、近くの図書館で一気に書いた。図書館に行くまでに、アイデアは8割くらい固まっていたから、一息で書いた。一息でないと、書けない気がしていた。


賞がほしいというよりも、絵をつけてもらえる、ということに魅力を感じていたのだ、と書き終わった後に思った。


もう一つ、短い文章の賞に応募した。何かをした、という気分にはほとんどなれなかったが、ほんの少しだけ心が温まる瞬間はあった。


誰のために、ということになると、残念ながらまだ、自分のために、ということになる。仕事をすること、遊ぶこと以外のこと、文章を書くこと以外に時間を使いたくなる誘惑は、絶えずある気がする。自分に正直に、ということは難しい。


ずっと揺らいでいるが、自分を許すことは、ほんの少しずつだが、出来ていっている気がする。ひとつひとつのことに関しては、あまり揺らがずに出来るようになっている気がする。


『うぬぼれと生産性というおかしな機械に乗って、生命力をほとんど消耗してしまっています。』という文章を読んだ。


何も生産しない、ということではなくて、生産する、ということにこだわらない、自分が生産をしているのだ、と思いすぎない、ということだろう。その上で熱意を持って、しかも自分の力ではない、と思うことができたら、それは好きなことをしている、ということだろうと思った。


残念ながら、まだ自分のためにこういうことを考えている。たまたまかもしれないが、文章を書くことは、そのことにも気づくきっかけになる。


何も出来なくても、自分を許せるようになれば、何でも出来るような気がした。それは、誰でも許せるようになる、ことにかなり近い気がした。みじめになっては、許していることにならない。人の意見を気にしていては、許していることにならない。