親しさ

時間の余裕、は出来た気がするが、反対に、前よりもなくなった、とも言える気がする。心の余裕は、本当に余裕だったらいいけれど、ぼやけさせて落ち着きたい、なら良いことはない。


気持ちのふり幅は、大きくなった。以前、単純に仕事に追われていたときよりも、物事に対する気持ちの入れようや、時には混乱や、冷静さや、興奮や、安堵感や、焦燥感は、激しくなった。


それは、元々望んでいたことであったし、子供の頃ははっきりとそういう人間で、表にも出していたから、単にその頃の心境を取り戻しつつある、というだけだ。


取り戻すだけでは、今やりたいことは出来ないが、最近まで仕事に追われていたことも、決心する意味では、大いに役に立っている。32歳という自分の年齢も、背中を押してくれている気がする。


反省したい、謝りたい、とすぐに思ってしまうが、しばらくそういう気持ちは封印したい。それは、怒りの裏返しであるということを、認めざるを得ない。そのことについては、周りの人に対して申し訳ないと思う。謝ってごまかさず、八つ当たりのように怒りを抱くのをやめにしたい。そのことで、100%謝れるようになりたい。


人に話を聞いてほしい。そう思って、実際に聞いてもらってもすっきりしないなら、正直に言いたいことを言っていないか、違う人に聞いてもらいたいか、他にもっと別に聞いてもらいたいことがあるか、のどれかだと思う。正直に話すな、とはっきり言われていなくても、そう求められていると思い込んで、その思い込みの相手の要求を飲んで、相手のために正直に話さないでおくと思い込んでしまう。実際、正直に話すな、という隠れた要求はいっぱいある。伝染病のように、世界中に広がってしまった。実際には、話すということ、正直になるということは、単純だけれど、簡単ではない。ただ、人のことについてとやかく言って自分を安心させずに、自分を危険に晒して正直になったら、人を不必要に無駄に傷つけることはない。人を傷つけることが、もっと傷つくことを防ぐなら、必ずしも悪いことじゃない。やっぱり、正直にならないと、ぼやけるだけだ。


でも、少しずつでないと、倒れてしまいそうな気がする。何回か、つぶれてしまっても、その加減がいまだにうまく出来ない。また同じようにつぶれてしまった、と思う。人がなんと言おうと、当たり前だが、自分や周囲の人を守ること、をまず考えようと思う。僕が自分を大事にしないことで、結果的に僕の周りの人の負担になってしまう。


人と別れる時は、瞬間的でないと辛い。すぐに別れるということを、何かつけて考えてしまうが、それは今の所、あまり良くないことのようだ。孤独な人は、独立できない。甘えないと、自立できない。僕も48になろう。


小説のことを考えていると、自分勝手になってしまう。火の玉みたいに傲慢で、負けず嫌いな面が表にうわっと出て来てしまう。それが嫌で隠したかったのだが、うわっ、と事あるごとに出て来てしまう。隠しきれない。認めざるを得ない。僕は昔から、人の嫌な所を突くのが得意というか、そういう悪い趣味を持っていた。O先生に学生たちが本にサインをもらいに行く時、僕は新約聖書の共同訳を持っていってしまった。いや、しまった、というよりも、敢えてそれを選んで持っていった。それは、言葉にするのは嫌だが、今思えば最悪のことだった。ひどすぎる。意識的ではないが、無意識の攻撃する気持ちや、悔しい気持ちや、べたっと甘える気持ちがそういう行動になったのだと思う。おそろしい。幸い、今本を見ると、サインが見当たらない。どこでどうなったかは分からないし、何処かで本が入れ替わったのかもしれないが、サインが何故か消えている。よく分からないけど、良かった!


誰も読んでいないだろうから、好き勝手に日記を書こう。セラピストに払うお金を節約できます、と言われてその通りだと思ったから。何故ここに書くのか、と言われたら、僕が不安だからだろう。