二番煎じ

昔、一度だけ、本当に美味しい玉露を、O先生に、というか、O先生の友人の方に、飲ませてもらった。一口で、十杯飲んだ充実感のあるような、一口で、暗い海に投げ出されたような、圧倒的な美味しさで、僕はそれ以来、潜在的に(?)玉露に対する憧れを持っていて、最近、入門用(?)の玉露を、時々飲むようになった。
玉露とか、冬キャベツとか、盆栽とか、そういう、よく言えば忍ぶような、悪く言えば自虐的な、中国の纏足のような、そういうものについて、複雑な気持ちになる。嫌いだけれど、凄いというような、嫌いとも言い切れない、気持ちになる。纏足は、違うかもしれない。植物だから、許してくれるのかもしれない。


僕はお茶の淹れ方が下手で、なぜか一番煎じより、二番煎じの方が美味しくなってしまう。要するに、注ぐのが速すぎるのか、蒸しすぎなのか、湯の温度が高すぎるのだが、中々うまくいかない。


自分に、創造力がある方だとは、思えない。色んな物を、集めて、並び変えたり、これは、これに似ているのではないか、と思ったり、これは、自分の中にもある、と外のものとくっつけたりする。それは、マネージメントなのかもしれないが、それしかできないとしても、充分であるような気がした。逆に言えば、細かい行動は気にせずに、細かい部分を大事にして、正直にやるしか方法がない、というか、どんなに頑張っても、どんなに楽にやっても、結局そうなってしまう、という気がした。ケミストリー、というのは、一人ではない。物と物と物、の中に、人がいる。それも、一人ではない。その時、重なった所は、濃くなっていて、それは、会議をしていて何かが決まった時、結局そのアイデアは誰が出したんだっけ、と分からなくなってしまったけれど、とりあえずいいアイデアが出たんだから良かったじゃないか、という時の爽快感に似ていて、それはみんなが謙虚で、遊んでいるから、そんな開放感を得られるんだと思うから、そんな気持ちを感じられたら幸せだなぁと思うけれど、それは期待するものじゃないし、すでに幸せな気持ちになっている。


あなたの口癖はなんですか、と聞かれたときに、不思議な、奇跡的な、と答えた。奇跡的、というとき、それは、ささやかなことの方が多い。


『二番煎じの奇跡』や『二番煎じの結晶』や『二番煎じの突然変異』は、何処までいっても、『一番煎じ』には敵わないが、『二番煎じ』は『一番煎じ』と対等になろうとしている。つまり、だからどうした、俺だって俺そのものだ、という気持ちが大事だ。