混乱ではなくて、両方が明確かつ未分に。

敵わない、と思うことはいいこと、と思いたい。自分が、本当は何がしたいか、どうなりたいかが良く分かる。よく言われているが、一番になりたい、というのは、どういう人になりたい、の答えにはなりにくいし、これは自分勝手に思うことだけど、スポーツなどの競技(争)は、今がピークなんじゃないか、完成期なんじゃないか、と思ってしまう。いつの時代も、スターが現れたら、その時代の人もそう思ってきたのだろうし、こういう気持ちも勘違いかもしれないが、タイガー・ウッズとか、ロジャー・フェデラーとか、イチローとか、吉田沙保里とか、羽生善治とか、見ていると、そんな気持ちになってしまう。


ロジャー・フェデラーで言うと、もうこんな風にネットに出ることが出来るプレーヤーは、シングルスプレーヤーでは若い人には出てこないだろうし、こんなにタフな現代のベースラインでのストローク戦に耐えられる人は過去にいなかったし、ネットとベースラインの両方のちょうどいい所にいて、どちらも超一流に出来ている人はいないし、片手バックハンドのプレーヤーがこれから世界一になる姿は想像しにくい。贅沢をいえば、あとは左利きのフェデラーがみたいくらいだ。


ロジャー・フェデラーもそうだけど、タイガー・ウッズも、きれいにスイングしたら、たまたまそこにボールがあったからボールが飛んでいったよ、みたいなスイングの自然さで、詳しくは分からないけれど、空手の透かしのようだ、と思う。


もう、一人でどうこう、というのは限界じゃないか、と思う。でも、団体競技は、よく分からない。野球はセットプレーだから、微妙だ。それに、競争でないなら、一人でやっていても、一人でないことが多い。何にも言っていないけれど、読めば読むほど、忘れたとしても、頭の何処かには残っていて、何かの役に立ったり、妨げたり、しているのだと思う。


分かったようなことを、よく言ってしまうけれど、何の役にも立たない。やり直しは出来るけれど、やり方を変えるのは、もうここまでこのやり方で来たのだから、中々難しい、ということは、よくあると思う。幸せなバベル、という言い方も、一見不幸趣味のような気もあるけれど、声を小さくするだけで、結局ざわざわしているだけなら、静かになれないなら、明確に分裂した声を聞く方が楽だ、ととりあえずは言っている人の話は良く分かる。とりあえず、それでも、無音ではない、無音のような雑音の、自覚したくても自覚できない苦しさよりは、随分ましだ、という話はよく分かる。左で櫂を漕いだら、次は右で櫂を漕ぐ。それで前に進むので、充分だと思う。途中から、左も右も関係なく、前に進もうと思っているだけで、進むはずだ。分からなくなりたい、明確な、未分の状態で、自分を明確に分かっている状態になると、自然と瞬間的に、判別することが出来るし、いつまでも疲れない。