遂に言葉はまとまらず

とりあえずは、土日を休みということにして、考えることも、少しは落としたいと思う。そう思うと、反対にすごい考えたりすることもある。


嫌だ、と思わないと、人は行動することもできない。と書いてあった。ずいぶん味気ない。息をしているのは、苦しいのが嫌だから。泣いているのは要求で、それも嫌なことがあるからで、嫌というのは欲があるというのと同じで、怒っているというのと同じで、生命はすべて怒っている、ということになる、と書いてある。


この人の言うことに対して、数年前はイラっとして、笑顔を見ても、本物ではない、と思っていたけれど、今はそのときの気持ちが嘘みたいに消えて、この人の言うことを素直に聞ける。


まだ読んでいる途中だから、どうなるか分からないけれど、僕は、散々前回の仕事をしている時に、怒る怒らないで迷い、怒ってみたり、怒らないでみたり、色々試してみたけれど、少なくとも僕の場合は、怒らないことにした方がいい、と体感した。自分だけの統計学で、何年間も試してみたけれど、どうやらそうらしい、ということが分かった。なぜか、ということは結局はっきりわからないけれど、そもそも、元々僕はかなり怒ってしまっているらしい、ということが原因である気がした。だから、ブラックホールのようになってしまったりする。


テニスは、随分残酷なスポーツで、学生時代はそんなに、そうは思わなかったのだが、大人がやると、試合では結構えげつない。あまり気にしないようにしているが、正直僕は醜い、とすら思う。


でも、すっきりするのは、やっぱり殴り合いをしているみたいなものだ、と思う。


言葉を使わなくて済むテニスとか、ゲームとか、そういうものに、時々ほっとすることがあるが、本当は、そんなのは嫌だと思う。(これも怒り)


言葉は、ぐさっ、と木の杭のような形で体の前に刺さっていて、養分をたっぷり吸って、黒々と闇のような色をしていて、随分不自由だ。いつの間に、と思うけれど、それは、本当は怒りだと思うけれど、随分ひどいと思う。


そんなことより、魚の種類の、見分けが全くつかない人生を送ってきたが、どうぶつの森のおかげで、少しだけ見分けがつくようになった。


少しだけ明るいことは、やれることは、全然なくなっていない、ということだし、順調、ではないけれど、まったく進んでなくもない、ということかもしれないし、やはり、それほど、要求したい気持ちはなくなってしまったな、ということかもしれない。


こんなにまとまらない、というのも、他の焦点に意識が行っているからで、いいことかもしれない。




怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

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