新しい要素はありません

昨日は、初めて借りるテニスコートに行く。公園の中の、木々に囲まれた、2面だけの、人工芝のコート。日が差し込むのを、ベンチで見ているだけでも、気持ちが良かった。人数も、最近では多い7人で、にぎやかだった。多少の、攻撃的な気持ちも、景色にほどけているように見えた。


入口と、チェックポイントと、出口と、進み方を、仏教の本を読むと感じる。論理的な部分が多い。進み方は、その中でも、示すのが一番難しい、ような気がする。ルービックキューブだって、一面ずつ完成させるというよりも、全ての面を完成させることが目的だから、間違った方向に進んでしまったら、完成している一面も、一度は崩す必要があるし、実のところは、その一面も完成していたわけではなかった、ということなのだろうけど、自覚するのはきっと難しいだろうし、毒をもって毒を制す、というか、感覚をもって感覚を制す、ということが必要になるのだろう。感情の少ない道具を徐々に使って、感覚も徐々に少ないものを使って、それは冷たくなったり感動しなくなったりすることではなく、落ち込んだり興奮したりすることが少なくなっていくことだ、と思った。それを忘れないようにしたとしても、一つのことにこだわるというよりは、色んなことをした方がいいというのは、苦しいことは分散した方がいい、といって分かりにくければ、楽しいことも分散した方がいい、ということで、やりすぎるというのはつらいことだ。やらなさすぎるということは、違うことをやりすぎているということでもあるし、つらいことだ。だから、じたばたとしたり、じっとしたりということを繰り返してもしょうがないけれど、それを緩やかにしても平静でいられるように、徐々になっていけばいいなと思う。結局は今の所、色んなものは必要だ。せめて感情から体をほどいて、感覚だけの方に、とりあえずは行かないと、それ以上の話にはならないのだろうと思った。笑うのは、怒りから、泣くのは、悲しいことから、ほどけることのような気がした。


スタンダードなことをすること、と素直に思えるようになったら、やっとスタートラインだという感じがした。そこにじっとできればできるほど、その人そのものが、見える。じっとできない分だけ、過去の誰かのその人そのものや新しさや挑戦に濁って、死んでしまう。今の所は、じたばたと散らさないと、すぐに自分以外のものに捕まってしまう。そう思っていたら、自分に捕まってしまう。その人そのものと自分は違う。その人そのものは、媒体そのものでありながら表現だ。光が物体でありながら波でもあって色や熱を伝えるように。今こうやって逃げているように、自分からも、自分以外のものから、離れようとしたら、自分が打ったボールの行方は、あまり見ることは出来ないし、しないので、ボールを最後まで良くみて、顔を残している美しいフォームのようになって、それは剣術の、残心、というものに似ている。