実用性と即興性

一昨日は、夜は肉じゃがを作ってもらい、若布と胡瓜の酢の物、蓮根と春雨と人参のサラダ、いんげんの胡麻和えと一緒に食べた。


希望では、とても持たないような長い時間でも、今、やった方がいいということを大事にするということは、何かに追われるわけでもなく、何か楽しいことはないかと無理して探しているわけでもなく、充実している、とか、楽しいとか、嬉しいとか、今その場で起こったことに即興でちゃんと思っているようなことで、それは、自分の状態ににやけるようなこととは違うし、もっとほしいと思うようなことも、単に自然に話を繋げるようなことから離れたら、それも、にやけたり、ほくそえんだりしていることと同じになりそうになることもある気がする。


書くということなんか、そういうことに、いくら注意してもしたりない、という気がする。


先週の日曜日の、将棋のNHK杯を録画していたので、見てみたら、今回は準決勝で、郷田さんと羽生さんの対局だった。見ていて面白い、と思えるときは、足し算・引き算のような手が、序盤に少なくて、掛け算・割り算のような手が多い時で、また、相手が仕掛けて来ても、すかしたり、別の場所から新たに仕掛けたりし、お互いの技をかわしながら、主導権争いをしている時で、この対局はまさにそんな感じだった。主導権争いは、僅かに、郷田さんが一歩リードして、羽生さんはなんとかそれ以上差が広がらないように、一見悪手のように見える不思議な手を指し、解説の先崎さんも、今の手はどうだったんでしょう、と、首を傾げることが何度かあった。羽生さんの手は、途中から、オセロで相手の打ち所をなくすような手のつなぎ方をするように、間に空気とか綿を含んだ手を多く打ち、郷田さんの攻めている実感を、墨を水を多く含んだ筆で薄めるように、なくさせていき、郷田さんはずっと優勢のままだったが、状況は変わって姿を変えるのに、差は広がっておらず、羽生さんは、マイナス1が自然とマイナス2に、マイナス3になっていくのを、別な姿のマイナス1に変えていくために、自転車操業のような間に合うか間に合わないかのぎりぎりの手をつなぎ、なんとか状況をマイナス1に留めていた。二人とも、スピードを落とさないために、余計な駒を打つことをせず、チェスのように盤上から駒が段々と少なくなっていった。郷田さんは、優勢のまま、実感のなさを振り払うように、実感のなさに飲まれて勝負所を逃さないように、羽生さんの守りの手を咎めるように、切り込んだ。羽生さんも、次の手で切り込んだ。羽生さんの手を見て、これで詰められるんだったら、郷田さんのさっきの手は、悪手になりますね、と解説の先崎さんは少し大きな声で言った。羽生さんは、顔を歪めて、体を揺らして、頭を押さえて、必死で考えていた。郷田さんも珍しく、顔を手で覆ったり、少し乱れて手を探っていた。お互いが、この相手だからこそ、ここまで必死でやっているのだろうし、ベテラン同志でも、同年代であれば、少年同志なんだろうし、本気で切り合っている姿は、ものすごく質の高い決闘で、緊張感に満ちた、共同作業だった。羽生さんは、最後の方は、すごい形相で、頭も押さえっぱなしで、手もぶるぶると震え続けていた。羽生さんが手を震わせながら、もう一度切り込んだのを見て、あ、これは詰みですね、最後に金銀ではなくて、桂を残すんですね、これはすごいですね、と先崎さんは、興奮気味に言った。作ったような手ですね、普通、後から検討している時に、こういう詰みがありました、と気づくような手なんですけど、よく気づきましたね、と先崎さんは言った。郷田さんは、状況を悟って、少し落ち着いて指し出した。羽生さんの手は、郷田さんが投了した後も、震え続けていた。