ひとつになる途中,雨の明かり

きょう笑っていいともの増刊号で二橋一幸さんという氷の中に花を描く人が出ているのを見て,二つを一つに,ということを思った。


あるお坊さんが指を1本立てるポーズをやっていて,それを形だけ真似した弟子がひどい目に遭うという話があるけど,ほんの少しは真似することにも意味があると思った。


話した言葉が反対の意味に受け取られるということがずっと続くという,よい意味じゃなく悪い意味にしかとられないという時期が去年からことしの春ぐらいまで,長い間続いた。自分に問題があったのは確かだったけれど,それはかなりおそろしい体験だった。


でもよい意味で,言葉に対しての気持ちが変わった。当たり前過ぎて何それという感じだけれども,気持ちがとても大事だということだった。


逆に言えばもう,それから反対のことばかり僕はしてきたのだから,言葉で自分を矯正することばかりしようと,人のことも矯正しようとしてきたのだから,逆に今は完全にもうやめてしまうと思っても問題はないと思えた。


これからは反対のこと,気持ちだけを大事にするというだけで自分は納得できるとやっと思えた。考えることもするけど,それは自分の中でもそれはただの道具だと割り切れるようになった気がした。


言葉に対するお腹いっぱい感はまだ半分ぐらい残っていて,まだちょっと自分の書いたものもじっと見続けられない。読んでもらう人にはやはりちょっと失礼かもしれない。でも気持ちは半分じゃないので,あとは時間がたてばちゃんと見れるようになる気がする。


小説を読んでいた時間が底をつきてしまって,ただ歩いている時間が空っぽになってしまったようになると,とても苦しい感じだった。小説と便宜上というか個人的に言ってしまうけれど,多分ただ歩いていて気持ちがすっきりしていかないとしたら,何か考えられたり思い浮かべたり,反対に何も考えたくないと思ったらそのようにできるということができない状態というのは,かなりまずい状況だと最近思った。


S先生が昔,小説を書きたい人は,話をしたい人と話を聞きたい人の2種類いると言っていて,多分,僕の隣にいた人は後者で,僕の目の前にいた人は前者で,僕は後者だという趣旨だったと思うけれども,まあそれは,そのとおりなのかもしれないけれど,でも,裏返せば反対の面だってそれぞれにはあるから,と言ってしまったらおしまいだけれど,やっぱり元も子もないことを言っても,身も蓋もないことにならないことにひかれるのはしょうがないけど,極力普通に生きているときは忘れようと思った。


あんまりこれはどうなのだ,という気がするけど,僕は小説を読んでいたら結構すぐ眠たくなる。面白くないということじゃないけど,頭がいっぱいになってしまって,すぐ眠たくなる。寝ている間にいろいろ思い浮かべて,満足した気持ちになっていることもある。あんまりよくないなと,自分でも思うけれど,多分,安心感が足りなくて,リラックスした瞬間に眠たくなるということだろうと思う。頭がいいイメージでいっぱいにならないとリラックスできないのは当たり前で,はっきり言ってそういう健康的でない部分が僕にあるからそうなるのだろうと思う。


イメージを浮かべるということが,楽しいことなのかな,と少し思った。絵を見るのも音楽を聴くのもいいけど,刺激が少ないところで,静かなところで,自分でイメージを浮かべることもしていないと,ふだんただ歩いているときにいいイメージを浮かべるのが下手になってしまう。それに多分今に恋するようなこともできなくなる。それで最近こんなに苦しかったのかなと思った。『俺たちが十九の時』を読んでいて,正直何も考えられないけれど,イメージはとにかく浮かべるようにしている。それで,すぐうとうとしてしまう。