とりあえず

大阪よりも,できるだけ兵庫県の中ででかけようという気持ちになり,きょうは三宮にでかけ,理由としては実家の淡路島に近づこうとしたり,同じような感覚で兵庫県内にいたいと思うのと,大阪に行くと良くも悪くもいろいろと考え過ぎてしまう気がしてしばらくは避けたいと思うことがあり,ときどき理由もなくぐったりしてしまうことがあり,もうしばらくは時間の流れに頼って,どれだけ手に力が入るか徐々に確かめながら,足を踏み込めるように早くなりたいと思いながら,焦りたくないと思っています。


言うまではよかったのに,言ってしまった途端よろしくなくなってしまうというのは,今は本当にそのとおりな部分が強くなってきたというか,言葉の側面のその部分が強くなってしまってきているのは,言葉はそういうものだというか,直線的に示そうとしたら部分しか示せないということと,反対に心も込めることができることがあるということを,あべこべに受け止めてしまうというか,僕自身少しずつ思い出してきているけど,数字とか表面的な意味以外に言葉はいろいろ含むことができるということとか,反対に言葉は幾ら正確に使おうと思っても,本当に記号的にしか使いませんというか,議論のようなことをしますよというルールがないときには,全然そんな数字のようには扱えませんよということを踏まえて話半分という部分もあると諦めておく必要があるということを忘れてしまっているような気がする。


正しいということは本当に怖い。ドラマで出てくる職業が,実際その職業を現実にやっている人が見たら全然違うと思うように,言葉に対する信頼が多分僕とか僕の知っている人たちは強くもあるし弱くもあるような気がするけど,それは一般的なことじゃないのかもしれないから,僕はいまいちちゃんと話せないのかもしれないというか,何でこんなに確かだと思っているのかと思ったり,反対にもっと信じてほしいというか,言外の意味なんて全くありませんと強く言いたくなったり,悪意はないという前提で聞いてもらいたいですと言いたくなることが多いなと思うけど,僕自身も嫌なことが続くと悪意があって言われているように思うこともあるから,それはそれでしょうがないとも思う。できるだけ僕自身そんなことは思わないように減らしていきたいし,相手の反応は極力あんまり考えないようになりたい。振り回されてみようというキャンペーン,試みはもう十分やったような気がするし,ちょっとそう思うのがおそいような気がするけど,そろそろ自分の感じていることを一番の頼りにしてみようという気になってきたのは,今までいっぱいそうじゃないことをしてきて振り返ってそう思うので,それはそれでよかったと思います。それにしても時間がかかってしまったような気もしますが,とにかくそういうことは誰とも比べずにちょっとずつやろうと思います。



やっぱりまた部屋がなかなか片づけられず,見つけたくても見つけられないものもあるけれど,本当にやりたいことをやった後は不思議に片づける気持ちになるので,そういう順番でやっていくしかないと9月に入って思うようになりました。


今は遠藤周作さんの『海と毒薬』を読んでいます。