明日が 来ます


奇特な人は何人かいるかもしれないけど、とりあえず誰も居ないと思ったほうが気楽だとハードルを下げて、マイナスなこともとりあえず声に出さないと、もっともっと曇ってしまうと思った。心が折れたり、気持ちが折れたりするほうがまだましだ。今はむしろ昔みたいに、心が折れたいと思う。

全然関係ないけれど、今回のクールはテレビドラマをよく見ている。月9とかを見ると、自分はこういう(?)大事なことは忘れてしまっているなと思う。簡単に言って、無茶な恋心のようなものを、忘れてしまっているなと思う。


理由がなく幸せな気持ちが一番だとして、理由があって幸せな気持ちが二番目だとして、理由があってつらいきもちが三番目だとして、理由がなくてつらい気持ちが四番目だとして、その四番目になってしまったとしたら、とても危ないというのが身を持ってわかった。あともう少し何かが足りなかったり、何かを持っていたりしたら、どうなっていたかわからないが、よくも悪くも曇っていたし、よくも悪くも男らしくないし、よくも悪くも往生際が悪く、よくも悪くも自己中心的だった。そのかみ合わせで、時間が経てばなんとかなると100ミリリットルぐらい、楽観的な飲み物を毎日服用して、じっと羽を休めているような感じだった。


無茶な恋心というのも、昔は現実的に見えたが、今はなんかうそっぽく見えてしまう。とても楽しんで見ているけど、昔はこれを大勢の人がきっとじっと見ているんだろうなと思ったけど、今はなんだかひとりで見ているような気がする。昔は録画して後から見ると少しつまらない気持ちになったが、今は録画しても放送してる時間に見ても、そんなに変わらない感じがする。でも、少しはやっぱり違う。

今までは外を見ることにだけ一生懸命になっても楽しい気持ちになれたが、もうそんな感じでは楽しいとはあまり思えなくなった。

それに最近はすぐに目が痛くなるので、移動中はとにかく目をつむっておく、というような日も多い。

キリスト教の人に最近誘われ、少し考える。これで何回目だろう。街を歩いていると、3年に1回ぐらいは誘われる。単にすきがあるだけなのか、(そう言えばマッサージにもよく誘われるし、道もよく聞かれるし、カメラも頼まれる)…それとも、それともな感じなのか。でも正直何でもいい。単にきれいなものが見たいだけだ。きれいなものをまたイメージできるようになりたいだけだ。母は1年ぐらい前、結婚してなくても変に思われないから、いいかもしれないよというような、よくわからないことを言っていた。よくわからないのは、お互い様だけど。

自分の中に宝石になってもおかしくないような、羽になってもおかしくないような、彫刻のような、何かがあると思いたい。今は散らばっているだけで、強く気長に想えば(この想うという字は、今までは意味ありげで極力使いたいくないと思って生きてきたけど、)、きらきらと光っていつでも思い描くことができるようになると信じて、想い続けたい。
棋士のように一日で何キロもやせるぐらい、考えたり想ったりしたいと思った。

おまけで、千駄ヶ谷将棋会館に行ってみたが、思った以上に普通だったけど、行けてよかった。きょろきょろしていたけど、知っている人は見つからなかった。サインはもらえなかった。

そんなことよりもっと大事なことがあったけど、うまく言えない。うまく言うことが大事だとしても、それが無理だということは、だいたい33年も生きていると、だいたいわかる。

ただ、あんまり調子のいいこともいいたくない。