感覚とイメージの遊び。というか、ただ単に遊び。

毎週日曜日のテニスはきょうもあったし、すぐにやめることはないと思うけれど、徐々に減らしていくことになるかもしれないと感じる。


朝8時からの練習が隔週であり、昼2時からのスクールが毎週あるけれど、朝の練習を取り仕切っていた人の転勤で、これからは続いたとしても細々とという感じになりそうだし、昼2時からのスクールは続けるかもしれないが、大分気持ちも減ってしまった。誰かに勝ちたいとかやっつけたいという気持ちが、前の仕事をやっている間は自然とテニスにも出てしまっていたけど、今はもううそみたいにそんな気持ちが空っぽになってしまった。多分もうテニスの試合に出ることはないだろう。そんな気持ちが減ったおかげで肩の力が抜けたのか、サーブはやっと本当の腕の使い方ができるようになった気がする。あともっとボレーがうまくなったら、もう思い残すことはないような気がする。


将棋は一日20分程度やるぐらいだけど、いずれはアマチュア初段にはなりたいなと思う。誰かをやっつけたい気持ちはほとんどなくなったはずだけど、残念ながら結局まだ少しは残っているみたいだ。詰みが見えたときは心臓がどきどきして、手が震える。(今は4級ぐらいで四間飛車ばかり指している。角交換をされたら向飛車をやることが多いけど、アマチュア初段になったら居飛車もやってみたいと思う。)


母から手紙を読んでほしいと言われているけれど、まだ実家に聞いたりとりに行ったりはしていない。今月は父の誕生日があって還暦にもなるということだから、何か考えたい。父のことは書こうと何度か試したことがあるけど、僕の考え、というのは1度もまともに書けたことがないような気がする。少しだけは、初日という雑誌に書いたことがあるけど(こんなふうに他人事のように書くのが僕の今までの文章を書く上での大事なポーズだったし、多分これからもそうだと思う。文章を書くときに自分の名前が見えると全然書けないというか息苦しくなるため、ワードとかでパソコンで書くときもいつも、自分の名前は書かなかったりして大学時代はプリントアウトするときも自分の名前を書いてないことがよくあるのを思い出した。でも結局授業などに提出するときはペンで自分の名前を書くので、むしろ意味ありげに自分の名前を書いている体裁になり、過ぎたるは及ばざるが如しの感じになった。少しからかうように、サインくださいと、とある一年上の先輩に言われたことがあることも、急に思い出した。また別の人たちからは名前を書かないのは無責任だという目で見られたり、言われたりしたこともあったけど、その文章を書いたのは間違いなく僕だし、誰かのせいにするつもりはなかったけど、それでも名前を書くとうまくいかないということを、大学生のときはうまく説明することが、というよりは、今もそんなにうまくできないと思うけど、自分の名前が見えなくても起こるモチベーションだけを使って書きたかったというようなことだったと思う)、もうちょっとちゃんと書いてみたいと思う。


小学生6年生のとき、修学旅行にはどこに行きたいかと先生がホームルームのときに生徒に聞いたとき、僕は自分の席の後ろの友達と少ししゃべっていたのか何なのか、注意するニュアンスも少し含めて、○○君(僕)はどこがいいですかと聞かれて、○○君(後ろの友達)と同じだったらどこでもいい、と答えたら、あんな自分の意思がないようなのはだめですよと先生はみんなに言ったけど、その当時の僕はそれ以上何も言えなかったんだと思うけど、今なら、すごい自分の意思が明確にあるじゃないか、と言いたい。別にショックを受けたわけではなかったと思ったけど、まだ覚えてるということは、結構ショックだったんだろうなあと思う。そういうことの積み重ねというか毒に当てられていく中で、どんどんこじんまりしてきてしまったんだろうなあと思う。本当は突然走りだしたり、声を出したりしたいことはあるような気がする。僕はこの人が好きだと当然のように言いたかったり、抱きつきたかったりしたいことは本当はすごいたくさんあるような気がする。