無理やりにでもとりあえず意味を考える

今週末は、人と話すことが多かった。遊びに関係して、話しながら遊んでいた。


電話で話したり、直接会ったりした。余り流暢にしゃべれたとは言えないけど、思うことはいっぱいあった。


大分偏った人になってしまった、というようなことを自分に対して感じるけど、幾ら偏ったとしても、大事にしていることは最大限うまくできる人間になりたい。たとえすごい気持ち悪くなってしまっても、その反対部分はすごくきれいなものを人に見せれるようになりたい。


とても単純にすることを大事にしている人で、そのために虚しさを抱えているような人に、複雑にすることを大事にしているような人が助けられる。それぞれエゴから逃れようとしているけれど、まだ逃れられていない。誰かを助けたい、と思うのは自然なことだ。それができないのであれば、虚しさがあるのかもしれない。自分がどういう方向に行くかなんて、エゴから逃れようとしながらだったら、結局は大体とりあえずどうするしかないというのは、ほぼ決まっていて選ぶ余地は余りない気がする。要するにそうするしかしょうがない、不満がないわけじゃないし、完全に理想というわけじゃないけど、という感じになる。それを自分でもちゃんと認められたら、助けたり助けられたり、その都度その都度ちゃんと適切になる気がする。


と、僕の場合はもう、いろいろとごちゃごちゃ考えて、中途半端に頭にうずまいていることを塗りつぶして、真っ黒なところから、透明なところにジャンプするしか方法がないのかもしれないと思います。本当は今すぐにで全て単純にしてしまいたいが、うまくいかないのでしょうがない。真っ黒なのがいいところは、色んな色を混ぜているところにあるのかもしれません。だから、きっと白い人も、透明ではないのかもしれないということのような気がします。その人のために、できることも自分にはあると少し強引にでも思って、誰に否定されても、気持ち悪いと思われてもそう思って、自信を持ってやりたいと思います。