無理やりにでもとりあえず意味を考える

今週末は、人と話すことが多かった。遊びに関係して、話しながら遊んでいた。


電話で話したり、直接会ったりした。余り流暢にしゃべれたとは言えないけど、思うことはいっぱいあった。


大分偏った人になってしまった、というようなことを自分に対して感じるけど、幾ら偏ったとしても、大事にしていることは最大限うまくできる人間になりたい。たとえすごい気持ち悪くなってしまっても、その反対部分はすごくきれいなものを人に見せれるようになりたい。


とても単純にすることを大事にしている人で、そのために虚しさを抱えているような人に、複雑にすることを大事にしているような人が助けられる。それぞれエゴから逃れようとしているけれど、まだ逃れられていない。誰かを助けたい、と思うのは自然なことだ。それができないのであれば、虚しさがあるのかもしれない。自分がどういう方向に行くかなんて、エゴから逃れようとしながらだったら、結局は大体とりあえずどうするしかないというのは、ほぼ決まっていて選ぶ余地は余りない気がする。要するにそうするしかしょうがない、不満がないわけじゃないし、完全に理想というわけじゃないけど、という感じになる。それを自分でもちゃんと認められたら、助けたり助けられたり、その都度その都度ちゃんと適切になる気がする。


と、僕の場合はもう、いろいろとごちゃごちゃ考えて、中途半端に頭にうずまいていることを塗りつぶして、真っ黒なところから、透明なところにジャンプするしか方法がないのかもしれないと思います。本当は今すぐにで全て単純にしてしまいたいが、うまくいかないのでしょうがない。真っ黒なのがいいところは、色んな色を混ぜているところにあるのかもしれません。だから、きっと白い人も、透明ではないのかもしれないということのような気がします。その人のために、できることも自分にはあると少し強引にでも思って、誰に否定されても、気持ち悪いと思われてもそう思って、自信を持ってやりたいと思います。

あなたのほうが優しいですと認める

最近、自然に女性に頭を下げることができるようになったかもしれない。
本来当たり前のことだけど、心の奥のほうで、難しかった。
極端に言えば、どこかでやっつけたいと思っていた。


一つのことに神経質になることが多いけど、その分ほかの何かが疎かになり続けていたと、頭だけじゃなく、少しだけ感覚でも周りの人から教えられている気がする。今までも本当は教えられていたけど、少し頭が弱らないと受け入れられなかった。


最近は余り自分の考えることを信用しない、というと言葉が強いけど、とりあえずやってみよう、言ってみようと、思う。多分、少し心が穏やかになったから、それで人に嫌な思いをさせることは、減ったような、多分、少しは相手の気持ちよさも大事に、少しだけだけど、なったような気もする。


自分より余りにも優しい雰囲気の言葉だらけの集まりに行くと、自分の言葉の醜さ(主にエゴです)を感じるので、何もしゃべれなくなるような気もする。それは、ありがたいけれど、反省をしよう。すぐには直らないけど。。。


優しい雰囲気は僕にも多分いつかはあったはずだから、少しづつ取り戻していこう。


ふらっとお茶に誘ってお茶を飲みに行くのは、スーツや部屋着っぽい服以外の服を着るのは久しぶり。それはやっぱり変。

変な話

校正、は今の仕事でもやることがある。
これとこれが同じか、とちゃんと見るのは、気持ちいい部分もあるような気がする。作業としては最終工程だし、これで仕上がるのか、という喜びもあるような気がする。
何段階かに分けてそれぞれ別のところを見ていって、どんどん見る範囲を絞っていって、最後に全部きれいになる。どんどん目の細かいやすりに替えて、仕上げていくみたいな感じになるときもある。


でも、それを完璧にできる自信はない。本当にずっとやってる人がどういう気持ちかはわからないけど、最終的には自分は間違う人間だから自分の精度を信用しないという気持ちで居続ける、ということに校正の人はなる気がする。だから自分が間違ったらショックは受けるかもしれないけど、でも自分は間違う人間だとはわかっている、という感じになるような気がする。


文章を書きたいと思うけど、結構行き詰まる感じがする。何かしら、自分が書いてて不安にならないと、白けてしまって、それにすぐ捕まってしまう感じがする。すぐ固まって、冒険しても冒険にならないと勘違いしてしまうような、本当は固まっていないはずなのに袋小路に入ったように感じてしまう。


ものすごく大ざっぱに言えば、誰かの突拍子もない話に感化されたい。そう思えば、やっぱり母のことを思い浮かべるし、きっと母のことをちゃんと受け入れたら、母のおもしろさが降り注ぐような気がする。

幼い日は遠く

久しぶりに、小説の内容を考えよう、と思った。
結果、すごいぼんやりとしていたけど、すごい考えているようでもあった。


母親のことと、父親のことを考えた。


同僚の父と母の話を、聞いたことを思い出した。
厳しく育てられた、とは言っていなかったが、勉強ができるかできないか、ということを同僚は自然と気にして、できないときは自然と落ち込んだというような話を聞いた。それは、僕にはない感覚だった。ある意味では当たり前かもしれないが、僕から見ればそれは、きっと表面的にわからなくても、ある意味厳しく育てられたのではないか、と思った。自然と両親のようになろうとして、それが難しいと感じるということなのかもしれないけど、はっきりと想像ができない。


僕がひとりですごい怒っていると、遠いところにいる母親からかかってくる電話も、怒っている。でも最近は、わりと楽しそうだ。


ほかのどんな方法よりも、頭が真っ白になる。実際にアイデアが浮かぶかどうかより、そちらのほうが大事な気がした。浮かんだら、ラッキーだと思おう。

もう一度一から

小学生のとき、同級生の、恐らく親友といっていい人との学校からの帰り道、その人の住んでいるマンションの側溝のそばで、一緒に将来ゲームをつくる人間になりたいと、その人に言った。その人は曖昧な返事をした。彼とは高校は違ったが、付き合いは続き、大学生1回生ぐらいのときに、多分、けんか別れのようになった。


彼は、大学に入って小説を書くようになった。彼の母親は恐らく、僕の悪影響だと思い、僕との付き合いを避けるように諭したようなところが、きっとあった。彼の小説を読み、僕は何か感想を言った。一応、前向きなことを言った。村上春樹さん的だったけど、それはその当時よくあったことだ。僕もその当時はそんな感じだった。書くことが、大事なことではないかもしれない、とどんな文脈だったか忘れたけど、彼に言った。きっと、小説を書いていくことにとって、という文脈だったと思う。彼は、いや、絶対それは大事でしょう、というようなことを言った。絶対、と言うのはかなり早いと思ったけど、僕の言っていることもかなり曖昧で苛立ちを覚えるようなことで、元気もなかったから、少し怒っても当然だったろう。彼は頭の切れる人だった。


風のうわさで彼はその後、システムエンジニアになり、その後整体師になろうと、今しているか、もうなっているようだった。


僕は彼に惚れていた。もちろん手をつなぎたいとかそういう意味の、いや、正直手ぐらいはつなぎたいかもしれない。いや、まあ、握手したい気持ちがある、と言ったほうが語弊が少ないかもしれない。とにかく、惚れていたと表現して間違いない。


彼のほかにも、男性に惚れることは、何回かある。多分、今までの人生で、あと2人か3人。もちろん基本的に気持ち悪いので、そんなことは本人には言わない。同じような意味で、別に手なんかつながなくてもいい、わけじゃないけど(これもういいか)、女性に惚れることもある。基本的に委員長的な人に弱い気がする。AKB48で言えば高橋みなみさん的な、ある意味損をしている人。手をつなぎたいという意味で言えば、歩き方に好みがあります。大体、メガネをかけなくても、歩き方を遠目に見れば知っている人はすぐわかります。特徴的であれば、後ろから近づく足音でわかります。でも、みんなそれぐらいわかるのかな。でも、とにかく歩き方に好みがあります。


いつも土曜日は、頭がスピード出すモードからちゃんと生活するモードにすっと戻らなくて、頭が苦しい。ので、きょうは図書館に向けて散歩をした。スピード出すモードに毒されると、一応目的地を決めないと外にも出られない。


本を最後まで読むことが、随分苦手になりました。で、ウィンドウショッピング的に、図書館の本を読んでいきました。聴覚障害者の人の実態を解説している本、会社で企画を立てるときの方針の決め方の本、レイモンド・カーヴァーの全作解説のような村上春樹さんが訳した本、老子を解説した本、角田光代さんの小説、柴崎友香さんの小説、石田千さんの小説、絲山秋子さんの小説(グーグル日本語入力はすごいですね、絲山さんがすぐ出てきます)。


読んでいる間、いろんな人の顔、いろんな場所が思い浮かびます。顔も場所も、笑顔です。なので、きょうは僕の調子が比較的よいのでしょう。少し泣きそうになります。最近泣きそうになったのは、おいしいお寿司をごちそうになったときです。泣きたい気持ちは、お寿司も小説も区別しません。


もう一度、今は既に、もう小説を、読む人でもないのかもしれません。ましてや、書く人ではありません。(ましてや、という表現は今の僕にとっては、とりあえず正しいです。)


村上春樹さんの『職業としての小説家』という本を読んでいます。とても、読みやすく、懐かしい感じがします。小説家を目指してこの本を読む人は何となく少ない気がします。ただ、これ以上言うのは今はしんどいですが、やっぱりわかりやすく、大体すっと納得できるような気がします。


図書館まで行く途中、帰る途中、木々が目に入ります。適当に言えば、52歳ぐらいまでに、もう一度、小説のことも目を逸らさずにやってみたい気持ちになりました。少し壊れた頭でどこまで近づけるかわかりませんが、絵を描いたり、プログラムを勉強したり、速記をやったりしながら、ぼちぼちやりたいと思います。いろんな人に惚れて、真似をしながら、自分らしくやりたいと思います。


皆さん、お元気でしょうか!


BGM:チャットモンチーBEST〜2005-2011〜
お酒:レモンチューハイ
つまみ:チーズ・コアラのマーチ

強い気持ちで緩む人

普通のことも、意識しないとすぐに忘れてしまう。今は、とりあえず、となったら、速記の練習をすることになっている。速記で何か新しいことを、と思っても、入場券がまだ手に入っていないから、毎日少しずつでも練習をしていこうと思う。一番モチベーションが低いときは、歌を聞きながら歌詞を書いている。今の自分にちょうどいい速さ、ちょっと速く感じるぐらいの速さは、その辺の語彙があんまりないので自信はないけど、アップテンポとまではちょっといかないぐらい、それをミディアムテンポというのでしょうか、それぐらいのバラードで、たまにちょっと速く歌うよ、ぐらいの曲がちょうどいい。すごくゆったりなバラードで書いてみたら、すごく申しわけなくなって、でも急に歌詞がぐっと入ってくることもあったり、ちゃんと聞いてないつもりでも歌詞をすごい覚えていたりするし、変に頭の認識力を使っているときより、自分の場合はちゃんと聞いているのかもしれない。でもやっぱり、もうしわけなくなるから、ある程度テンポの速いので練習する。


アドレナリンが出ているときは、明るいことを言いたい。こういう話の転換をすると、ちょっと大木こだまひびきさんぽくなるけど、そんなことはどうでもいいけど、アドレナリンを長らく出していない人は、もしくは出すのが下手な人(私です)は、最初に怒りが出てきてしまって、それでまた嫌になって、アドレナリンを出さないでおこうという弱気な態度に出たり、逆に開き直っていつも怒っているような状態になったりする。いつも怒るような感じが本当に悪いのか、と改めて聞かれるようなことがもしあったとすれば、すっと答えられないような気がするが、少なくとも自分だけのことについて言えば、悪い、とはっきり言える。人の顔をちゃんと見て思い切り笑顔になれる人はすごいなと思う(何やの、急に)とにかく、怒るぐらいなら、思い切り何かほめたほうが、多少目をつぶっても、いいのかもしれない。目をつぶるといっても、結局今までだって、反対のほうに対しては目をつぶっていたのだから、どうせ一緒だ。多かれ少なかれ、右であれ左であれ、プラスであれマイナスであれ、全く何もない人は・・・というようなこともついつい言いたくなってしまう。


厳格な生ぬるさとか、期待しないことに対する希望みたいなものを使って、そういうふうにもう既にしている人は山ほど・・・というように比べるのはやめよう。それはそれは、これはこれだ。僕も知らぬ間に、当たり前じゃないことができているかもしれない。これも比較を含んだ言い方だけど、少しずつ逃れたい。


人の顔を見てはっきり笑える人は、覚悟のある人、なのかもしれない。最近奇跡的に久しぶりにそういう人をまた目の前にして、体の緊張が緩んでいくのを感じた。近くにいるだけで緊張する人と緩む人の間にいると、体がぐらぐら揺れるように感じることもあり、とにかく、いろいろすいません、という気持ちになる。


今1つだけ超能力的なことで欲しいものがあるとしたら、疲れなくてどんなに音が悪くても人が何て言っているか聞き取れる耳が欲しいけど、もっとじっくり考えたら、別のことが出てきそうな気がする。


でもやっぱり、笑っている感じがすてきだったら、それ以上のことはありません!

本棚の整理


ことしは、少し早めにお盆休みに入ることになった。余り考えなくてもいいのだ、と少しずつ周りの人たちから教えられている気もする。


笑っている感じがすてきだったら、正直もう何も適わない感じがするけど、今の僕にも多少、笑うこともできる気がする。


ダースベイダーがマスクをとったみたいに、と言うと、すぐに終わりが来そうだけれど、そうではないような気もするけど、そうであってもいいと思って静かな気持ちになったり、やけくそになりながらも惨めな気持ちになることはないみたいな、そういう感じだったらもう一度熱くなってみたい気がする。


結局ちょっと、そんなことより、本棚を一応ちゃんと種類別に整理して並べられたことが、僕としてはそんな当たり前なことをできたことが、すごい達成感がある。本を減らしてあと並べるだけなのに、丸2日費やしてやっとできたからだ。もう一度やれと言われたらできない、ことはないけど、できたらしばらくやりたくない、こともないから不思議だ。実際きれいに並ぶと気持ちいい。気持ちいいと思えたら、またきっとできる気がする。


体の整え方、鍛え方を書いた本。あんまり長続きしたことないけど、フェルデンクライスはいいなと思うけど、まず落ちつきのなさを何とかしないとなかなか続けられない。それに、イメージする力がとても大事な気がする。目の運動をしたら、すごく目の疲れがとれた。定期的に続けられたら、視力も上がりそうな気がする。


心の整え方、鍛え方を書いた本。これはちょっと体を整える本とまざり気味に並んでいる。色のついた夢を見れる人がいるけど、僕もそうなりたい。単純に赤をイメージしてと急に言わても、結構難しい。きっとこれが簡単な人もいるんだろう。ちょっと話があやしくなってくるけど、僕はオレンジとブルーが弱いみたいだ。と言われても、困るけど、どちらも好きな色なのに、と思う。


同人誌、もしくはそれに類する個人的な本。背表紙のない本が多い。ちゃんと順番に並んでいないのも多い。でも、ぱっととってその本を読めばいいし、頑張って並べてみてもいい。単行本サイズより大きい本は、別のところに並べた。河南文学第12号なんて分厚い本もある。これは僕の一つ上の年代の人たちの卒業制作が主に載っている雑誌。自分の卒業のときの雑誌は持っていないが、これをまだ持っているということは、まあそういうことなんだろう。興味がある人はバックナンバーを求めて河南の大学に連絡してください。少し読んでみたけど、やっぱりそうだ、と思う。フランスの人たち、と僕と僕の親しい人が思っていた人たちが勢揃い。単純におもしろいと思うので、また読むこともありそうです。感傷的な要素はありません。


アメリカ文学。大分売ってしまったけど、レイモンド・カーヴァートルーマン・カポーティヴァージニア・ウルフヘミングウェイが少しずつ残っている。ヴァージニア・ウルフは全然完読できないのに、読みたいなとずっと思っている。「魔法としての言葉」というインディアンの詩の本、読んでも全然正直よくわからないけど、がんばろうと思う。


保坂和志さん、小島信夫さんの本。泥沼流の人たち。小島さんは考え過ぎて考えることができなくなれて、考えてないと思われることが平気な人で、保坂さんはきっとそれは平気ではないんだと思う。読解力の向こう側の人たち。でも、一瞬呼吸と呼吸の間に、確かに見える。ぱっと手を出したら、一瞬だけわかる。それを繰り返すしかない。でもそういう長い時間をかけて一瞬をつかんでまた逃がすという読み方を面白いと思わせてくれる人たち。でも、完読できない本も結構残っている。


小川國夫さん関連の本。昼行燈ノート、冬の二人、止島、虹よ消えるな、イエス・キリストの生涯を読む、夕波帖、日本の名随筆79「港」、俺たちが十九の時、小川國夫全集11、私の聖書、新約聖書共同訳。文庫本はまだあるけど、単行本サイズはこれだけ。半分以上いただいた本です。


文庫本。講談社文芸文庫はなんとなく売れなかった。この辺はごった煮。よしもとばななさんの本がほとんどないけど、命の恩人と言っても過言ではないのに、本はあっさり手放したのは多いけど、同じ本をまた買うかもしれない。


漫画。ハイスコアガール。今はいろいろあって手に入らない本。ゲーム少年だった小学生のころを思い出して泣いてしまう本。ベイビーステップ。テニス少年だった中学生、高校生のころを思い出して泣いてしまう本。フォアハンドの高速スライス、まねして結構やってみたが、すごい難しい。3月のライオン。将棋の話だけど、大学生のとき、小説に対して少し暗い気持ちもありながらも一生懸命やっていたことを思い出して泣いてしまう本。ハンターハンター。キメラアントの王と軍儀王の女の子が最期に軍儀を打っているところで、泣いてしまう本。幽遊白書もそうだけど、この人の本を読むと、自分がいろんなことを差別している人間だと思い知らされる感じがする。人間と妖怪とか蟻と人間とか関係ない感じに、少し乱暴で、でも丁寧にそんな感じにしてしまうときのさわやかさと雑さと温かさがすごい人。よつばと!。心がささくれてきたら、よつばを見習う。あずまんが大王も揃えたいと思う。


西尾維新さんの本。刀語は全部揃っている。刀には目がない、という理由だったけど、刀じゃない刀もいっぱい出てくる。化物語が、本棚に少しずつふえていく予定。


今は、速記の練習を中心にやりたいと思う。ちょっと形は今までと違うけど、言葉のことをごちゃごちゃ考えることに、やっぱり頼って生きているのかもしれない。堂々と人の話を黙って聞いていられる、という言い方もできるかもしれない。内容は、何でもいいのかもしれない。よくないけど、内容にかかわらず救われる部分が結構あるし、基本的な修行趣味は一生消えないような気がする。