時々、調子がよければひらめく程度に

故郷の旧友のニュースを聞いた。10年以上会ってはいなかったが、いずれ何か機会があればまた会うような気がしていた。多分、そういうようなことを思っていても、会うことは積極的にならないと難しい。どちらかといえば、僕が避けられたような感じで別れてしまったが、彼から見ると僕が彼のことを嫌いになったように見えたかもしれない。

 

泣くほうが普通、だと思うけど、そんなにはっきりは泣けなかった。それぐらい、僕は自分を見失っている、全然自分らしくない方向に行ってしまったのだと思った。多分、彼もそうであったような気がした。

 

最近、また小説を読んで面白いと感じるようになった。やっぱり、乾いた感じでないと、自分は余り受け付けないのだと感じた。今更だけど、志賀直哉さんは結構乾いた感じなのかもしれない。といってもほとんど読んでいないから、たまたまそういうところを読んだだけなのかもしれない。乾いた感じで書いていても、夏目漱石さんはどこか奥のほうが湿っている感じがして少し苦しくなる。ほとんど読んでないのに余り感覚的なことを言っても失礼かもしれないけど、ただ、ちょっとまた小説を読むのを面白いと感じてきた、というだけというか、僕はそれがちょっとうれしいというだけでこんなことを言いたいだけかもしれない。

 

彼は急いでいるように僕には見えた。彼には僕はのんびりし過ぎているように見えたのかもしれない。彼には瞬発力があったけど、やっぱり焦っていた。僕には集中力が足りない気がする。僕には自分が決定的に悪いと思うだけの鋭さがなかった。それで助かったのかもしれない。彼には、鋭さがあったし、明晰だった。それでいて割り切るのがうまくないところがあった。その二つが揃ってしまったら、悪いときは逃げ道がないのかもしれない。僕はでも、その二つが揃っているのが、すごいと思っていた。

 

途中だけど、また少しずつ、集中できなければ、何かの合間にも書いていこうと思います。

 

 

 

 

桜(餅)

少しぎこちないけれど、一応車輪が転がっている感じがする。抽選のガラガラ(多角形の大抵木材でできているあれ)を交互に少しずつ回して、一周したらポン、と玉が一個出ているような感じがする。それを慌てても、回してもポン、と玉が出てこないときもある気がする。

 

桜を見ながら桜餅を食べるのは、とても贅沢な感じがして、1つでおなかいっぱいになったような気持ちになった。多分、ちょっとだけ離れた桜を見ながら食べるほうがおいしい。

聞こえるように書くというようなこと

聞いたことを一字一句文字にしようとすることは、不自然なことだなあと思う。また、それを聞いたそばからそのようにしようとすることは、さらに不自然なことのような気もする。もし自分が何も聞こえないとして、人が話していることを、一字一句知りたいと思うかどうか、想像して、一字一句ではなくても、やはり知りたいと思うだろう。目は強い。一字一句なんて実際は、ふだんそんなふうには全然聞いていない、ということはとてもよくわかった。

1月の末、試験を受けて、結果はまだわからないけれど、左の頭が次の一週間は治らなかった。まあ、速くなっている。ある意味必死に泥臭く、そのようにしたのだが、一方で、そんなこと知らない、と思う。何となく、今はそんなこと知らないと思いながら、必死にやって、どうでもいいと時々思いながら、やっていこうと思う。

機械のように、という言葉が色気を持つことがあるだろうか。ないかもしれないけど、搾り取れば、片隅には何かきらっとしたものも少しはあるかもしれない。

小説を読むことも、最近少しある。ごはんを食べているとき、早く飲み込みたいと無意識に本能的にしてしまうのを我慢して何度もよく噛んで溶けてしまうにして食べたら、すぐおなかいっぱいになる。かみたい欲求がほとんどで、何か食べたい欲求は実はそんなになかった的なことに、囚われ過ぎて無理して食べないみたいなこともやってしまいがちだからほどほどにして、でも小説は別にもうそんな食べたいという感じじゃなくて、しっかり噛んでおなかいっぱいになろうと思う。その状態で書けないなら、もう少しこういう心境になれよう。少なくとも、こういう心境になろうとすることはやめないでおこう。

何か最近しゃべらないと少しおかしくなってしまう感じがすると思ったら、要するに人の話をある意味大量に毎日聞いていて、ちゃんとは覚えていないが覚えていて、そういう意味で情報量が盛りだくさんで、女性に限らず話が溢れてくる人たちと養殖的に同じ状態になっているだけじゃないかという気がしてきた。でも、急に話が溢れてくるわけではないから、いいことが全然ない。

そんなことが言いたいわけではなかったけど、何か書いてみたいと思っているけど、こういうことじゃない。

明るく少々自覚的に

しゃべらないと頭がすっきりしない、というようなことが、自分に起きるとは余り想像していなかったけれど、最近は確かにそんなふうになってしまったようだった。

書くということも随分減ってしまったから、そのせいもあるのかもしれない。同じような言い回しとか、そういうことも気にならないぐらい、同じことを言ったり、同じ言い回しをしたりしている。自分で同じことを言っているなと思っても、何となくもう一度ちゃんと言いたいという気がしてしまう。

聞いている人がわかっていないだろうからもう一度聞いてほしいというよりも、自分がはっきりわかっていないから、自分がもう一度ちゃんと言えるかどうか確かめたいということのような気がする。

迷惑かもしれないけど、そういう気分のときは話を聞きたい病からは解放されているから、プラマイゼロのような気もする。まあ、話をしたい病にはなってるから、プラマイマイナスのままかもしれないけど、せめて明るく話したり、謝ったりしよう。

一マス進む

油断すると、すぐに人間らしさを失うような気がする。当たり前のことを、意識的にやらないと、すぐにペースが乱れてしまうような気がする。当たり前のこと、と思ってしまったときには、既にペースが乱れているような気もする。

お茶を飲んだり、お風呂に入ったり、ストレッチをしたり、洗濯物をしたり、掃除をしたり、今のところ料理は再開できていないけど、そういうことを大切にしていきたい。

音楽を聴いたり、絵を見たり、描いたり、文章を書いたり、読んだり、誰かと話したり、話を聞いたり、漫画を貸したり、貸してもらったり、お礼を言ったり、言われたり、謝ったり、謝られたり、眠ったりしていきたい。

口が、少しわかりにくいことを言いたがることがある。多分、甘えであるような気がする。できるなら、しっかり話していきたい。もし、しゃべれなくなるぐらい、何かを大事に思っているなら、そのときは仕方がないかもしれない。

機械的になってしまいやすい状況がとても多いけれど、そこで人間的になれないと、人間らしさが強くなっていかないような気もするけど、それは何でもかんでも立ち向かうことでもないから、努力しないで、正直にいきたい。

結局のところ、少しずつ、やっていきたい。

何にしても味のある感じの

箸を次々並べて置いていったら、そこに綿あめが少しずつ留まっていくように、どんどん膨らんでいくように、言葉を置いていくイメージだといいなと思う。
箸をつなげて整然と並べて、それがきれいだというのもいいのかもしれないけど、ちょっとそれはわざわざやるには大変である気がする。


音楽と同じぐらいかどうかわからないけど、幾ら時間があっても瞬発力は最低限、幾らか必要ということで、多分多少失敗しそうになりながら何とか失敗しない的な能力、即興というのか、とととと、というときの身のこなしの様子に独自性が必要な感じもする。何のこっちゃ。

そういう境地になりたい。

今日は速記の試験やった。2つ受けたけど、どちらも少し手が届かなかった。少し下の級だと、ガチガチになっても何とかできたけど、緊張するけど余裕を持って頭空っぽにしないとできないような気がした。受かりたいと思うとか、理屈で一文字一文字処理することに頭を使うとかしていたらとても追いつかない。ほんとに純粋に空気清浄機みたいなものになったつもりで、すぅ〜と軽快に行かないととても最後まで処理しきれない。水の中で息をとめていて、いろいろ考えると酸素を使ってしまってすぐに息が切れるような感じです。
でも、これはちゃんとやりたい。緊張してガチガチになってできることには限界があるのですよと言われてるみたいな気もする。一級までいったら、自然体の落ち着いた人にもなれるかもしれない。多少、こだわりが強いような感じの。